異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

馬車は白樺並木を抜け、ゆるやかな坂を上っていく。

 やがて視界が開けた。

「わぁ……」

 思わず息を呑む。

 目の前に現れたのは、青空へ向かって堂々と建つ白亜の大邸宅だった。

 幾本もの円柱が正面玄関を支え、赤銅色の屋根が秋の日差しを受けて輝いている。

 庭園には色とりどりの秋薔薇が咲き誇り、噴水の水音が静かに響いていた。

 馬車が玄関前で止まる。

 御者が扉を開けると、私は緊張で少し震える足を踏み出した。

 その瞬間――。

 重厚な玄関の扉がゆっくりと左右へ開く。

 中から執事やメイドたちがずらりと並び、一斉に頭を下げた。

「上田爽子様、ようこそおいでくださいました」

「ひゃっ……」

 思わず小さな声が漏れる。

 こんな歓迎を受けるのは初めてだった。

 私も慌てて深々と頭を下げる。

「よ、よろしくお願いいたします」

 執事長と思われる初老の男性が一歩前へ出る。

「公爵様がお待ちです。こちらへどうぞ」

 私は案内されながら屋敷の中へ入った。

 大理石の床は鏡のように磨かれ、高い天井には豪華なシャンデリア。

 壁には大きな風景画や甲冑が飾られている。

 歩くたびに、自分の靴音だけが静かに響いた。

 廊下の途中では、料理人たちが慌ただしく行き交っている。

 その一角には、大きな保冷箱がいくつも積まれていた。

 蓋を開けると、永久凍土が白い霧を立ち上らせている。

 その中には美しい霜降りの豚肉。

 別の籠には朝採れの青葱や野菜が整然と並べられていた。

「こちらがご用意した食材です」

「ありがとうございます」

 ここまで準備してくださったのだ。

 自然と背筋が伸びる。



◇◇◇



 案内された厨房は、ヴェダー亭の何倍も広かった。

 石造りの窯が三つ。

 巨大な作業台。

 銅鍋や鉄鍋が整然と並び、料理人たちが興味深そうに私を見つめている。

「こちらをご自由にお使いください」

「失礼します」

 私は持参した青いエプロンを身につける。

 三角巾で髪をまとめると、不思議と気持ちが落ち着いた。

 ここはどんな立派な厨房でも、料理を作ることに変わりはない。

「よし」

 頬を三回、軽く叩く。

 いつもの儀式だ。

「いただきます」

 まずは米を研ぐ。

 白く濁った水を何度も替えながら、優しく指先で洗う。

 釜へ移し、水加減を確かめる。

 薪へ火を入れると、ぱちぱちと乾いた音が厨房へ響いた。

 その間に豚バラ肉を薄く切り揃える。

 熱した鉄鍋へ並べると、脂がじゅわっと溶け始めた。

 醤油。

 砂糖。

「いただきます」

 そして、今年収穫したばかりの生姜をたっぷりとすりおろす。

 爽やかな香りが立ち上る。

 厨房にいた料理人たちが一斉に顔を上げた。

「これは……」

「薬草では?」

 私は木べらで優しく混ぜる。

 豚肉へ照りが生まれ、甘辛い香りが辺りへ広がった。

 炊き上がった白米を持参した丼へよそう。

「いただきます」

 艶やかに光る豚肉を丁寧に並べ、最後に刻み青葱を散らした。

「出来ました」

 銀の盆へ豚丼を載せる。

 思ったより手が震えていた。



◇◇◇



 執事に案内され、長い廊下を歩く。

 重厚な扉が静かに開いた。

 そこは広々とした食堂だった。

 大きな暖炉には火が灯り、窓の外には黄金色の庭園が広がっている。

 長い食卓の中央には、一人の男性が座っていた。

 五十代半ばほどだろうか。

 灰色の髪を後ろへ撫でつけ、堂々とした体格をしている。

 隣にはレオンが微笑んで立っていた。

「父上」

「うむ」

 公爵は穏やかに頷き、私へ目を向ける。

「あなたが上田爽子殿ですか」

「はい。本日はよろしくお願いいたします」

 私は深く頭を下げた。

「どうぞ、お召し上がりください」

 銀の盆をそっと卓上へ置く。

 丼と銀のフォークを並べる。

 公爵はフォークを手に取り、豚肉と白米を一緒に口へ運んだ。

 静かな時間が流れる。

 一口。

 二口。

 三口。

 そして――。

「これは美味い!」

 食堂中へ響くほど大きな声だった。

 公爵は目を見開き、もう一口頬張る。

「素晴らしい!」

 興奮したように立ち上がる。

「薬草が、こんなにも美味い食べ物になるとは!」

 生姜の香りを何度も確かめながら頷く。

「豚肉の甘みを引き立て、脂がまったく重くない!」

「ご飯が止まらん!」

 隣でレオンも嬉しそうに笑っていた。

「父上、申し上げた通りでしょう」

「ああ!」

 公爵は豪快に笑う。

「爽子殿、この料理は見事だ!」

 私は胸を撫で下ろした。

「ありがとうございます」

 公爵は食べ終えた丼を満足そうに眺める。

「この薬草を広めれば、この領はさらに豊かになる」

 私はその言葉を聞き、ゆっくり口を開いた。

「実はお願いがあります」

「申してみよ」

「来年、生姜の大量栽培を目指したいと考えています」

 公爵は腕を組みながら静かに耳を傾ける。

「薬草としてではなく、食材として育てたいんです」

「なるほど」

「豚丼だけではありません。スープカレーや煮込み料理にも使えます」

「保存も利きますし、町の新しい特産品になると思います」

 公爵はしばらく考え込んでいた。

 やがて大きく頷く。

「よかろう」

「えっ」

「その計画、我が公爵家も支援しよう」

 私は驚いて顔を上げた。

「本当ですか?」

「レオンから、水車やコーンスターチの話も聞いている」

 公爵は満足そうに微笑む。

「爽子殿は、この領に新しい実りをもたらしてくれた」

「生姜も必ず実を結ぶだろう」

 その力強い言葉に、胸の奥から温かなものが込み上げてくる。

 私は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 来年の春。

 生姜畑は、きっと今年よりもっと広くなる。

 そんな希望が、晩秋の柔らかな陽射しのように、静かに胸いっぱいへ広がっていった。