窓の外では、夕焼けが少しずつ藍色へと変わり始めていた。
部屋の中は静かだった。
熱冷ましの布を替えたおかげか、テオの呼吸は先ほどよりも幾分穏やかになっている。
私は空になった土鍋を布で包み直し、小さく息をついた。
「もう少し食べられそうですか?」
「いえ……十分いただきました」
掠れた声だったが、先ほどよりも少し力が戻っている。
「それなら良かったです」
私はベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
テオは天井を見つめたまま、小さく笑う。
「まさか爽子さんに看病していただけるとは思いませんでした」
「私も、一人暮らしだとは思っていませんでした」
その言葉に、テオの笑みが少しだけ消えた。
部屋を見渡す。
質素な家具。
整然と並ぶ本。
食器は一人分だけ。
どこを見ても、ここには誰かと暮らした形跡がなかった。
「……ずっと、お一人なんですか?」
私は遠慮がちに尋ねる。
テオはしばらく黙っていた。
窓から吹く秋風が、白いカーテンをゆっくり揺らす。
「……はい」
小さく頷いた。
「学生の頃からです」
「ご家族は……」
そこまで言って、私は口をつぐんだ。
踏み込み過ぎただろうか。
そう思った時だった。
テオは苦笑しながら天井へ視線を向けた。
「父とは……あまり仲が良くありません」
「そうなんですか」
初めて聞く話だった。
テオはゆっくりと言葉を選ぶ。
「父はトーカチーでも、それなりに名の知れた地主です」
「地主さん……」
「ええ」
熱のせいか声は弱々しい。
けれど、一つひとつ噛み締めるように話し始めた。
「昔から厳格な人でした」
その横顔を静かに見つめる。
「農民は甘やかすな。収穫が悪いのは努力不足だ。父の口癖でした……」
淡々と語るその声には、どこか諦めにも似た響きがあった。
「収穫量だけを見て、人を見ない方なんです」
私は何も言わず耳を傾ける。
「雨が続いても。病気が流行っても。家族が倒れても。それでも『もっと働け』と言う人でした」
部屋の空気が少し重くなる。
「私は、それがどうしても理解できませんでした」
テオはゆっくり目を閉じる。
「畑は、人が耕します」
「人が笑って暮らせなければ、良い農業なんてできません」
その言葉は、今まで私が見てきたテオそのものだった。
トマトの育て方を丁寧に教えてくれたこと。
生姜を一緒に植えたこと。
畑へ何度も足を運び、土を見てくれたこと。
すべて思い出す。
「だから私は家を出ました」
静かな声だった。
「父は農場を継げと言いました」
「でも私は断りました」
「そして農業ギルドへ」
私は思わず頷く。
「だからギルドに……」
「はい」
少しだけ微笑む。
「農民の相談を聞く仕事なら、私にもできると思いました」
熱で赤くなった頬のまま、真っ直ぐ天井を見つめる。
「私は……」
一度息を整えた。
「弱い立場の農民の味方でいたいんです」
その言葉には迷いがなかった。
「豊かな人は、自分で何とかできます」
「でも、小さな畑を守っている人たちは違います」
「病気ひとつ。」
「害虫ひとつ。」
「天候ひとつで生活が変わってしまう」
私は小さく笑った。
「だから、あんなに親身になってくださるんですね」
テオは照れくさそうに眼鏡のない目元を細める。
「仕事ですから」
その言い方が、なんだか可笑しい。
「またそうやって照れ隠しをする」
「……分かりますか」
「分かります」
二人で小さく笑う。
部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
私は布を水へ浸し、もう一度額へそっと乗せる。
「テオさん」
「はい」
「きっと、みんな感謝しています」
ヴェダー亭へ相談に来る町の人たち。
畑で嬉しそうに笑う農家さん。
市場で手を振ってくれる八百屋のおばちゃん。
その笑顔の裏には、きっと何度もテオの助けがあったのだろう。
「私も、その一人です」
テオは少し驚いたように私を見た。
やがて穏やかに微笑む。
「……ありがとうございます」
その笑顔は、いつもの仕事中の真面目な顔ではなく、一人の青年として見せた、どこか安堵したような優しい笑顔だった。
私はその笑顔を見つめながら、胸の奥にしまい込んだ自分の過去を思う。
この人は、自分のことを打ち明けてくれた。
ならば今度は、私の番なのかもしれない。
そう思いながらも、その言葉だけは、まだ喉の奥から出てこなかった。
部屋の中は静かだった。
熱冷ましの布を替えたおかげか、テオの呼吸は先ほどよりも幾分穏やかになっている。
私は空になった土鍋を布で包み直し、小さく息をついた。
「もう少し食べられそうですか?」
「いえ……十分いただきました」
掠れた声だったが、先ほどよりも少し力が戻っている。
「それなら良かったです」
私はベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
テオは天井を見つめたまま、小さく笑う。
「まさか爽子さんに看病していただけるとは思いませんでした」
「私も、一人暮らしだとは思っていませんでした」
その言葉に、テオの笑みが少しだけ消えた。
部屋を見渡す。
質素な家具。
整然と並ぶ本。
食器は一人分だけ。
どこを見ても、ここには誰かと暮らした形跡がなかった。
「……ずっと、お一人なんですか?」
私は遠慮がちに尋ねる。
テオはしばらく黙っていた。
窓から吹く秋風が、白いカーテンをゆっくり揺らす。
「……はい」
小さく頷いた。
「学生の頃からです」
「ご家族は……」
そこまで言って、私は口をつぐんだ。
踏み込み過ぎただろうか。
そう思った時だった。
テオは苦笑しながら天井へ視線を向けた。
「父とは……あまり仲が良くありません」
「そうなんですか」
初めて聞く話だった。
テオはゆっくりと言葉を選ぶ。
「父はトーカチーでも、それなりに名の知れた地主です」
「地主さん……」
「ええ」
熱のせいか声は弱々しい。
けれど、一つひとつ噛み締めるように話し始めた。
「昔から厳格な人でした」
その横顔を静かに見つめる。
「農民は甘やかすな。収穫が悪いのは努力不足だ。父の口癖でした……」
淡々と語るその声には、どこか諦めにも似た響きがあった。
「収穫量だけを見て、人を見ない方なんです」
私は何も言わず耳を傾ける。
「雨が続いても。病気が流行っても。家族が倒れても。それでも『もっと働け』と言う人でした」
部屋の空気が少し重くなる。
「私は、それがどうしても理解できませんでした」
テオはゆっくり目を閉じる。
「畑は、人が耕します」
「人が笑って暮らせなければ、良い農業なんてできません」
その言葉は、今まで私が見てきたテオそのものだった。
トマトの育て方を丁寧に教えてくれたこと。
生姜を一緒に植えたこと。
畑へ何度も足を運び、土を見てくれたこと。
すべて思い出す。
「だから私は家を出ました」
静かな声だった。
「父は農場を継げと言いました」
「でも私は断りました」
「そして農業ギルドへ」
私は思わず頷く。
「だからギルドに……」
「はい」
少しだけ微笑む。
「農民の相談を聞く仕事なら、私にもできると思いました」
熱で赤くなった頬のまま、真っ直ぐ天井を見つめる。
「私は……」
一度息を整えた。
「弱い立場の農民の味方でいたいんです」
その言葉には迷いがなかった。
「豊かな人は、自分で何とかできます」
「でも、小さな畑を守っている人たちは違います」
「病気ひとつ。」
「害虫ひとつ。」
「天候ひとつで生活が変わってしまう」
私は小さく笑った。
「だから、あんなに親身になってくださるんですね」
テオは照れくさそうに眼鏡のない目元を細める。
「仕事ですから」
その言い方が、なんだか可笑しい。
「またそうやって照れ隠しをする」
「……分かりますか」
「分かります」
二人で小さく笑う。
部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
私は布を水へ浸し、もう一度額へそっと乗せる。
「テオさん」
「はい」
「きっと、みんな感謝しています」
ヴェダー亭へ相談に来る町の人たち。
畑で嬉しそうに笑う農家さん。
市場で手を振ってくれる八百屋のおばちゃん。
その笑顔の裏には、きっと何度もテオの助けがあったのだろう。
「私も、その一人です」
テオは少し驚いたように私を見た。
やがて穏やかに微笑む。
「……ありがとうございます」
その笑顔は、いつもの仕事中の真面目な顔ではなく、一人の青年として見せた、どこか安堵したような優しい笑顔だった。
私はその笑顔を見つめながら、胸の奥にしまい込んだ自分の過去を思う。
この人は、自分のことを打ち明けてくれた。
ならば今度は、私の番なのかもしれない。
そう思いながらも、その言葉だけは、まだ喉の奥から出てこなかった。

