異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

長屋の前まで来ると、私は思わず足を止めた。

 木造二階建ての建物は年季が入っていて、夕暮れの橙色の光を浴びながら静かに佇んでいる。

 軒先には洗濯物が風に揺れ、どこかの部屋から夕餉を作る匂いが漂ってきた。

 教えてもらった部屋番号をもう一度確かめる。

「……ここ」

 胸がどきどきと高鳴る。

 仕事以外で、男性の部屋を訪ねるのはいつ以来だろう。

 籠を抱き直し、小さく深呼吸をした。

 コン、コン。

 木戸を遠慮がちに叩く。

「テオさん……爽子です」

 しばらく返事はなかった。

 やっぱり眠っているのだろうか。

 そう思った時だった。

 ゴトッ。

 部屋の奥で椅子を引くような音がした。

 続いて、ゆっくりと近付いてくる足音。

 ガラリ。

 木戸が少しだけ開いた。

「……爽子さん」

 そこには夜着姿のテオが立っていた。

 いつも掛けている銀縁眼鏡はなく、外から差し込む夕陽に目を細めている。

 頬は熱を持って赤く染まり、額には細かな汗が滲んでいた。

 潤んだ瞳はどこかぼんやりとしていて、肩で息をするたび胸元がゆっくり上下している。

「テオさん……」

 思わず声が震えた。

「熱、あるんですね」

「少し……」

 そう答えたものの、声には力がない。

 立っているだけでも辛そうだった。

 私は籠を持つ手に自然と力を込める。

「入ってもいいですか?」

 テオは少し驚いたような顔をしたが、小さく頷いた。

「どうぞ……散らかっていますが」



◇◇◇



 部屋は質素だった。

 木の机が一つ。

 本棚には農業や植物の本が几帳面に並び、小さな窓から秋の夕暮れが差し込んでいる。

 その奥には簡素なベッド。

 それだけだった。

「一人で暮らしているんですね」

「慣れていますから」

 そう言って笑おうとしたが、その笑顔もどこか苦しそうだった。

「まず横になってください」

「ですが……」

「お願いします」

 私が少し強い口調で言うと、テオは素直に頷いた。

 ベッドへ腰を下ろし、そのままゆっくり横になる。

 私は籠から土鍋を取り出した。

「卵粥です」

「わざわざ……」

「熱いうちに召し上がってください」

 木匙でひと口すくい、ふうふうと息を吹きかける。

 部屋いっぱいに卵とお米の優しい香りが広がった。

「どうぞ」

 テオはゆっくり体を起こし、一口食べる。

 しばらく静かに味わっていた。

「……美味しいです」

 その一言に、私は胸を撫で下ろした。

「良かった」

 土鍋の半分ほど食べ終えると、再び横になった。

 呼吸はまだ少し荒い。

 私は井戸水を入れた桶へ布を浸し、固く絞る。

 この井戸に精霊はいなかった。

「失礼します」

 額へそっと乗せる。

「冷たい……」

 少しだけ表情が和らいだ。

 私はベッドの脇へ腰掛ける。

 部屋には静かな時間だけが流れていた。

 窓の外では、秋風が木々を揺らしている。

 その時だった。

 そっと。

 私の手首へ温かなものが触れた。

「……!」

 見ると、テオが私の手首を弱々しく握っていた。

 熱のせいか、その手は少し熱い。

 私は驚いて顔を上げる。

 テオは薄く目を開け、潤んだ瞳で私を見つめていた。

「爽子さん……」

「はい」

 掠れた声が静かな部屋に響く。

「好きな人は……いるんですか?」

 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。

 私は返事ができなかった。

 視線だけが静かに逸れていく。

 窓の外。

 夕焼けに染まる白樺。

 揺れる木の葉。

 熊ちゃんの笑顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。

 あの人は、もう過去の人。

 そう何度も自分に言い聞かせてきた。

 けれど、離婚したことも、この世界へ来る前のことも、まだ何一つテオには話せていない。

 この優しい人へ、嘘をついたまま答えることはできなかった。

 部屋には沈黙だけが流れる。

 テオは急かさなかった。

 私の返事を、ただ静かに待っている。

 私はゆっくり息を吸い、小さく微笑んだ。

「今はまだ……」

 言葉を選ぶように続ける。

「お店のことしか考えられないんです」

 テオはしばらく私を見つめていた。

 やがて、少し寂しそうに、それでもどこか安心したように微笑む。

「……そうですか」

 握っていた手がゆっくりと離れた。

「ごめんなさい。変なことを聞いてしまいました」

「いいえ」

 私は首を横に振る。

 本当は違う。

 答えられない理由がある。

 そのことを話さなければならない。

 そう思うほど、言葉は喉の奥で重く沈んでしまう。

 テオは静かに目を閉じた。

 熱に疲れたのだろう。

 規則正しい寝息が少しずつ聞こえ始める。

 私は眠る横顔を見つめながら、そっと額の布を取り替えた。

「……早く元気になってくださいね」

 小さな独り言は、秋の夕暮れに静かに溶けていった。