異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

窯の中では薪がパチパチと音を立てて燃えている。

 私は大きな寸胴鍋の前に立ち、木べらでゆっくりと鍋をかき混ぜた。

「いただきます」

 飴色になるまで炒めた玉ねぎ。

 手羽先。

 人参。

 大きめに切ったジャガイモ。

 スイートコーン。

 そこへ昨夜から煮込んでいた鶏のスープを静かに注ぐ。

 コポコポ……。

 湯気とともに甘い野菜の香りが立ち上った。

「よし」

 今日は、この世界で初めてのスープカレー。

 異世界にはカレーという料理そのものが存在しない。

 香辛料は薬草として扱われ、料理へ使う文化はほとんどない。

 だからこそ、この香りだけでも驚くだろう。

 小皿へ香辛料を並べる。

 黒胡椒。
 火山唐辛子。
 山うこん。
 月桂樹。

 それぞれを石臼で細かく挽き、木のボウルで混ぜ合わせる。

 鼻をくすぐる刺激的な香りに、思わずくしゃみが出た。

「くしゅん!」

「ヴェダー!」

 八匹のヴェダーたちが一斉に葉っぱを揺らして笑う。

「もう、笑わないの」

 私も思わず笑ってしまう。

 鍋へ香辛料を少しずつ加える。

 ジュワッ。

 今まで嗅いだことのない複雑で奥深い香りが、ヴェダー亭いっぱいに広がっていく。

「わぁ……」

 自分でも思わず声が漏れた。

 札幌で何度も食べ歩いたスープカレー。

 熊ちゃんと休日に並んで食べた行列店。

 店ごとに違う香り。

 違う辛さ。

 違うスープ。

 あの記憶を頼りに、私は木べらを動かし続ける。

「もう少しかな」

 野菜が煮崩れないように火加減を弱める。

 手羽先も箸で持ち上げると、ほろりと骨から身が離れそうだった。

 その時だった。

 カラン。

 店の扉につけた小さな鐘が鳴った。

「いらっしゃいませ」

 振り向くと、扉の前にはテオが立っていた。

「こんにちは」

「テオさん!」

 けれど今日は様子が少し違う。

 いつもの麻袋も書類も持っていない。

 両手で何かを大事そうに抱えている。

「どうしました?」

 テオは少し俯いたまま、ゆっくり近付いてきた。

 銀縁眼鏡の奥の瞳がどこか落ち着かない。

「その……」

 言葉を探すように一度息をつく。

「市場で……見つけまして」

 紙をそっと開いた。

 中から現れたのは、一輪の深紅の薔薇だった。

 美しい花弁が、窓から差し込む陽射しを受けて輝いている。

「さ……爽子さんに」

「……えっ?」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 テオは照れくさそうに耳を赤くしながら、薔薇をおずおずと差し出す。

「いつも……美味しい料理をありがとうございます」

 それだけ言うのが精一杯だったようだ。

 私は慌てて両手で受け取る。

「わぁ……」

 深紅の花が手の中でふわりと揺れた。

「綺麗……」

 自然と笑みがこぼれる。

「ありがとうございます」

 胸の奥がじんわりと温かくなる。

 花を贈られたのは、いつ以来だろう。

 熊ちゃんと結婚していた頃も、記念日に花束をもらったことはほとんどなかった。

 その温もりが嬉しい。

 嬉しいのに。

 胸のどこかが、チクリと痛んだ。

(私……)

 薔薇を見つめる。

(まだ言ってない)

 テオさんには。

 レオンさんにも。

 町の人たちにも。

 私は離婚していること。

 熊ちゃんという夫がいたこと。

 今は別々の人生を歩いていること。

 誰にも話していない。

 隠そうと思っていたわけではない。

 話すきっかけが、なかっただけ。

 けれど。

 こうして真っ直ぐな好意を向けられるほど、そのことが心に引っかかる。

(……私、ずるいよね)

 花を抱きしめる手に少しだけ力が入った。

 もし、この人が私の過去を知ったら。

 離婚歴があると知ったら。

 今と同じように笑ってくれるだろうか。

 不安が胸をよぎる。

「爽子さん?」

 テオが心配そうに顔を覗き込む。

「……あっ」

 私は慌てて笑顔を作った。

「ご、ごめんなさい。嬉しくて、ちょっとびっくりしちゃって」

「そうですか」

 テオはほっと胸を撫で下ろした。

「花屋のおばあさんが、この薔薇が一番綺麗だと勧めてくださって」

「本当に綺麗です」

 私は店の窓辺へ小さなガラス瓶を置き、井戸の水を注ぐ。

 その中へ薔薇をそっと活けた。

 深紅の花は午後の光を浴び、店の中を明るく彩っている。

「ヴェダー!」

 八匹のヴェダーたちも葉っぱを揺らしながら、その花を囲むように飛び跳ねた。

「似合いますね」

 テオがぽつりと呟く。

「え?」

「この店に、とても」

 照れ隠しのように眼鏡を押し上げる。

 私は窓辺の薔薇を見つめ、小さく微笑んだ。

「大切にします」

 その笑顔を見たテオも、ようやく安心したように微笑み返した。

 けれど私の胸の奥には、小さな棘が一本だけ残ったままだった。