ギルドの執務室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
窓から差し込む昼前の陽射しが木製の机を照らし、積み上げられた書類の影を長く伸ばしている。
テオは銀縁眼鏡を指先で押し上げながら、一枚一枚報告書へ目を通していた。
「東地区、小麦収穫量……前年比一二パーセント増」
羽根ペンを走らせる。
さらさら。
さらさら。
書類へ署名を終え、隣の山へ移す。
次は水車小屋の工事報告。
続いて薬草園から届いた生姜の栽培記録。
「順調ですね」
小さく呟き、机の端へ積み重ねた。
ふと視線が壁に掛けられた時計へ向く。
まだ十一時二十分。
「……まだですね」
再び書類へ目を落とす。
けれど数分後には、また時計を見てしまう。
十一時二十七分。
十一時三十四分。
十一時四十一分。
今日は妙に針の進みが遅い。
羽根ペンを持つ手が止まり、思わず窓の外を眺める。
白樺の葉が風に揺れていた。
今頃、爽子さんは何を作っているのだろう。
昨日、市場で香辛料を買っていた。
また新しい料理が出来上がるのかもしれない。
そう考えるだけで自然と口元が緩む。
「……テオ君」
向かいの机から声が飛んできた。
顔を上げると、年配の職員が肩を揺らして笑っている。
「今日は時計ばかり見てるな」
「え?」
慌てて背筋を伸ばす。
「い、いえ」
「昼が待ち遠しいなんて珍しいじゃないか」
「そんなことは……」
否定しようとしたが、言葉が続かなかった。
ちょうどその時だった。
カーン。
教会の鐘が町へ響き渡る。
十二時を知らせる音。
テオは反射的に立ち上がっていた。
「あ……」
自分でも驚くほど素早かった。
周囲の職員たちが一斉にこちらを見る。
「ははは!」
一人が声を上げた。
「昼飯も食べず仕事ばかりしていたテオ君が、最近じゃ食堂通いか」
「しかも毎日」
「ずいぶん変わったもんだ」
執務室に笑い声が広がる。
テオの耳がみるみる赤くなった。
「ち、違います」
「何が違うんだ?」
「仕事の確認を……」
「ヴェダー亭でか?」
「…………」
返事に詰まる。
さらに笑いが起こった。
「いいじゃないか」
「若いってことだ」
「美味い飯は仕事の活力だからな」
テオは照れくさそうに咳払いを一つすると、書類を丁寧に揃えた。
「午後までには戻ります」
「行ってらっしゃい」
「今日は何をご馳走してもらうんだ?」
「…………」
答えずに帽子を被る。
けれど口元だけは少し緩んでいた。
◇◇◇
ギルドを出ると、夏の終わりの風が頬を撫でた。
石畳の道には露店が並び、人々の笑い声があふれている。
パン屋からは焼きたての匂い。
肉屋では主人が豪快に骨付き肉を切っていた。
八百屋のおばちゃんが手を振る。
「テオさん、こんにちは!」
「こんにちは」
自然と足がヴェダー亭へ向かう。
その途中だった。
一軒の花屋の前で、ふと足が止まる。
木製の桶には色とりどりの花が並んでいた。
白い百合。
青いデルフィニウム。
黄色い向日葵。
そして、一輪だけ美しく咲いた深紅の薔薇。
「いらっしゃい」
花屋のおばあさんが優しく笑う。
「どなたかに贈り物かい?」
「え……」
テオは少し慌てた。
「い、いえ……その」
視線は自然と薔薇へ向かう。
鮮やかな赤い花弁。
朝露をまとったように美しい。
「綺麗ですね」
「今朝咲いたばかりさ」
おばあさんはそっと薔薇を持ち上げた。
「一本だけでも花は喜ぶよ」
テオはしばらく迷っていた。
こんなものを渡したら困らせてしまうだろうか。
いや、開店祝いでも誕生日でもない。
理由もなく花を贈るなんて。
けれど──。
爽子さんの笑顔が頭に浮かぶ。エプロン姿で「ありがとうございます」と笑う姿が。
気がつけば財布を取り出していた。
「……その薔薇を一本ください」
「はいよ」
紙で丁寧に包まれた薔薇を受け取る。
どこか照れくさくて、落とさないようにそっと胸元へ抱えた。
「ありがとう」
花屋をあとにしたテオは、小さく息を吸う。
ヴェダー亭まで、あと少し。
胸の鼓動だけが、教会の鐘よりも少しだけ速く鳴っていた。
窓から差し込む昼前の陽射しが木製の机を照らし、積み上げられた書類の影を長く伸ばしている。
テオは銀縁眼鏡を指先で押し上げながら、一枚一枚報告書へ目を通していた。
「東地区、小麦収穫量……前年比一二パーセント増」
羽根ペンを走らせる。
さらさら。
さらさら。
書類へ署名を終え、隣の山へ移す。
次は水車小屋の工事報告。
続いて薬草園から届いた生姜の栽培記録。
「順調ですね」
小さく呟き、机の端へ積み重ねた。
ふと視線が壁に掛けられた時計へ向く。
まだ十一時二十分。
「……まだですね」
再び書類へ目を落とす。
けれど数分後には、また時計を見てしまう。
十一時二十七分。
十一時三十四分。
十一時四十一分。
今日は妙に針の進みが遅い。
羽根ペンを持つ手が止まり、思わず窓の外を眺める。
白樺の葉が風に揺れていた。
今頃、爽子さんは何を作っているのだろう。
昨日、市場で香辛料を買っていた。
また新しい料理が出来上がるのかもしれない。
そう考えるだけで自然と口元が緩む。
「……テオ君」
向かいの机から声が飛んできた。
顔を上げると、年配の職員が肩を揺らして笑っている。
「今日は時計ばかり見てるな」
「え?」
慌てて背筋を伸ばす。
「い、いえ」
「昼が待ち遠しいなんて珍しいじゃないか」
「そんなことは……」
否定しようとしたが、言葉が続かなかった。
ちょうどその時だった。
カーン。
教会の鐘が町へ響き渡る。
十二時を知らせる音。
テオは反射的に立ち上がっていた。
「あ……」
自分でも驚くほど素早かった。
周囲の職員たちが一斉にこちらを見る。
「ははは!」
一人が声を上げた。
「昼飯も食べず仕事ばかりしていたテオ君が、最近じゃ食堂通いか」
「しかも毎日」
「ずいぶん変わったもんだ」
執務室に笑い声が広がる。
テオの耳がみるみる赤くなった。
「ち、違います」
「何が違うんだ?」
「仕事の確認を……」
「ヴェダー亭でか?」
「…………」
返事に詰まる。
さらに笑いが起こった。
「いいじゃないか」
「若いってことだ」
「美味い飯は仕事の活力だからな」
テオは照れくさそうに咳払いを一つすると、書類を丁寧に揃えた。
「午後までには戻ります」
「行ってらっしゃい」
「今日は何をご馳走してもらうんだ?」
「…………」
答えずに帽子を被る。
けれど口元だけは少し緩んでいた。
◇◇◇
ギルドを出ると、夏の終わりの風が頬を撫でた。
石畳の道には露店が並び、人々の笑い声があふれている。
パン屋からは焼きたての匂い。
肉屋では主人が豪快に骨付き肉を切っていた。
八百屋のおばちゃんが手を振る。
「テオさん、こんにちは!」
「こんにちは」
自然と足がヴェダー亭へ向かう。
その途中だった。
一軒の花屋の前で、ふと足が止まる。
木製の桶には色とりどりの花が並んでいた。
白い百合。
青いデルフィニウム。
黄色い向日葵。
そして、一輪だけ美しく咲いた深紅の薔薇。
「いらっしゃい」
花屋のおばあさんが優しく笑う。
「どなたかに贈り物かい?」
「え……」
テオは少し慌てた。
「い、いえ……その」
視線は自然と薔薇へ向かう。
鮮やかな赤い花弁。
朝露をまとったように美しい。
「綺麗ですね」
「今朝咲いたばかりさ」
おばあさんはそっと薔薇を持ち上げた。
「一本だけでも花は喜ぶよ」
テオはしばらく迷っていた。
こんなものを渡したら困らせてしまうだろうか。
いや、開店祝いでも誕生日でもない。
理由もなく花を贈るなんて。
けれど──。
爽子さんの笑顔が頭に浮かぶ。エプロン姿で「ありがとうございます」と笑う姿が。
気がつけば財布を取り出していた。
「……その薔薇を一本ください」
「はいよ」
紙で丁寧に包まれた薔薇を受け取る。
どこか照れくさくて、落とさないようにそっと胸元へ抱えた。
「ありがとう」
花屋をあとにしたテオは、小さく息を吸う。
ヴェダー亭まで、あと少し。
胸の鼓動だけが、教会の鐘よりも少しだけ速く鳴っていた。

