もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

 昨夜は野菜炒めとブイヨンを宿屋のみんなに振る舞った。

 初めて口にする優しい味付けに、ドワーフたちはすっかり虜になった。

「もう一皿!」
「おかわりだ!」

 大きな皿を抱え、野菜炒めを何度もおかわりしている。

 妖精たちは食後もふわふわと宙を舞いながら、美味しかった料理を即興の歌にして歌い始めた。

 鈴のような歌声が宿屋いっぱいに響き渡り、誰もが笑顔になっていた。

 ギルは空になった皿を見つめ、何度も頷いている。

「爽子、明日の朝食もお願いできるかい?」

「もちろん」

 私は笑顔で頷いた。

 明日の朝は、じゃがいもを牛脂で香ばしく焼こう。

 そこへ砂糖と醤油で甘辛く味付けをする。

 肉じゃが風のお惣菜。

 濃い味付けばかり食べ慣れている異世界の人たちなら、きっと美味しいと喜んでくれるはずだ。

 そんなことを考えているだけで、自然と頬が緩んだ。

 翌朝。

 朝靄が町を白く包み始める頃、私は温かなベッドからゆっくりと起き上がった。

 夏だというのに、オホーツク領の朝晩は思った以上に冷える。

 魔法の靴を履いていても床板はひんやりとしていて、思わず肩をすくめた。

 窓の外はまだ薄暗い。

 白い霧の向こうに、朝市の灯りだけがぼんやりと揺れている。

 市場はもう始まっているらしい。

「行ってみたいな」

 他の宿泊客を起こさないよう足音を忍ばせ、静かな廊下を歩く。

 ギシギシと音を立てる階段を一段ずつ降りると、人の気配が消えた食堂はまだ薄暗く、キッチンだけに灯りがともっていた。

 香ばしい香りが鼻をくすぐる。

 コーヒーだ。

「おや、おはよう爽子。早いね」

 ギルは湯気の立つカップを片手に笑っていた。

「おはよう、ギル。目が覚めちゃって。それに市場へ行ってみたいの」

「そりゃあいい。朝市は新鮮な野菜が揃うからね。まずはコーヒーでも飲んで温まりな」

「ありがとう」

 差し出された木のカップを受け取る。

 一口飲んだ瞬間、私は危うく吹き出しそうになった。

「……あ、甘い」

 砂糖がこれでもかと入っている。

 コーヒーというより、もはや砂糖湯だ。

「ギル、これは何?」

「どんぐりのコーヒーだよ」

 ギルは私の表情に気付かず満足そうに笑っている。

「今日は少し甘めにしてみたんだ」

「そ、そうなんだ……」

 この世界の人は、本当に味が濃いものが好きらしい。

 塩も砂糖も容赦がない。

「ごちそうさま。美味しかったです」

 笑顔を崩さないまま、私は勢いよくコーヒーを飲み干した。

 胃の中まで甘さが染み渡る。

 ギルは満足そうに頷きながら、窯から石のように硬いパンを取り出していた。

 やっぱり気になる。

 あのパンにはイースト菌が入っていない。

 そもそも、この世界には酵母という考え方がないのかもしれない。

 天然酵母になりそうな果物はあるだろうか。

 酒種の代わりになるものは。

 ビールが売っていたら、ビールを酵母の代わりにしよう。

 そんなことを考えながら宿屋の扉を押した。

 蝶番がギギギと音を立て、ひんやりとした朝の空気が流れ込んでくる。

 軒先につながれた馬が、こちらを見て鼻を鳴らした。

「ぶるるる」

「おはよう」

 何気なく声を掛ける。

 すると馬は耳をぴくりと動かし、大きな口をゆっくり開いた。

「おはよう」

「……しゃべった!」

 思わず後ずさる。

 馬は不思議そうに首を傾げていた。

「人がしゃべるなら、馬もしゃべるさ」

「そ、そういうものなの?」

 異世界って奥が深い。

 私は苦笑しながら手を振った。

「行ってきます」

「気をつけてな」

 馬に見送られ、石畳の道を歩き始める。

 白樺の林を抜けると、朝露に濡れた草花が朝日にきらきらと輝いていた。

 霧の向こうに四本足の動物が見える。

「エゾシカ?」

 よく見ると違う。

 次の瞬間、その動物は大きな純白の翼を広げ、音もなく空へ舞い上がった。

「ぺ……ペガサス?」

 思わず立ち尽くす。

 北海道みたいな景色なのに、伝説の生き物までいる。

 なんだか夢を見ているみたいだった。

 少し足早に噴水広場へ向かう。

 朝市はすでに大賑わいだった。

 色とりどりの天幕が並び、採れたての野菜や果物が山のように積まれている。

 相変わらずキャベツは「ぼそぼそ」と呪文を唱え、ピーマンと人参は手に取るたび小さな悲鳴を上げた。

「ごめんね」

 思わず謝りながら籠へ入れる。

 お目当てのじゃがいもと卵だけは無口だったので、少しほっとした。

「これください」

 金貨を差し出すと、露店の主人は目を丸くした。

「金貨なんて初めて見たよ。それに、その紋章……グリズリー辺境伯のものじゃないか」

 胸が少しだけ痛む。

「あんた、領主様のお知り合いか?」

 私は少し考えてから肩をすくめた。

「知り合いというか……元妻なんです」

「えっ?」

「捨てられちゃいました」

 わざと明るく笑ってみせる。

 すると店の周りにいた人たちが一斉に「あぁ……」と気の毒そうな顔になった。

 主人はしばらく考えると、籠の奥から一羽の小さな雌鶏を抱き上げた。

「これ、持っていきな。毎日卵を産むいい子だ。元気出しな」

「えっ、いいんですか?」

「ああ。きっと役に立つ」

「ありがとうございます!」

 私は渡されたお釣りの銀貨と銅貨を麻袋に入れ、雌鶏と野菜を抱えて帰路についた。

 宿へ戻ると、ギルは雌鶏を見るなり目を細めた。

「おお、いい買い物をしたじゃないか」

 私は籠の中の雌鶏をそっと撫でる。

「これからよろしくね」

 コッ、と小さく返事をした雌鶏を見て、自然と笑みがこぼれた。

 これで私の旅の仲間が一人増えた。

 名前は――『チョボ』にしよう。