異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

カラン、コロン。

 午後の穏やかな時間。

 ヴェダー亭の扉につけた小さな鐘が、澄んだ音を鳴らした。

「いらっしゃいませ」

 顔を上げると、柔らかな陽射しを背に、一人の青年が立っていた。

 金色の髪が午後の光を受けてきらりと輝く。

 白い上着にビロードのベスト。

 胸元には小さな百合の紋章が刺繍されている。

「こんにちは、爽子さん」

「レオンさん」

 思わず笑顔になる。

 今日は騎士の姿はなく、一人だった。

 それでも立ち居振る舞いはどこか上品で、町の人とは違う空気を纏っている。

「お忙しいところ失礼します」

「いいえ、ちょうど落ち着いたところです」

 ヴェダーたちは葉っぱを揺らしながらカウンターの陰から顔を出した。

「ヴェダー」

「こんにちは」

 レオンは腰をかがめ、小さな彼らへ優しく手を振る。

「元気そうですね」

「ヴェダー!」

 すっかり顔馴染みになったらしい。

 私は窓際の席へ案内した。

「今日は何になさいますか?」

 レオンは木製のメニューを眺め、小さく微笑む。

「どんぐりコーヒーを一杯。それから……」

 少し考えて、

「胡桃のクッキーをお願いします」

「かしこまりました」

 私はキッチンへ向かった。

 麻袋から焙煎したどんぐりを取り出し、石臼で細かく挽く。

 胡桃のクッキーは朝焼いたばかりだ。

 籠の中には、こんがり狐色に焼き上がったクッキーが並んでいる。

 けれど、皿へ乗せようとした手が止まった。

「……これでいいのかな」

 町では身分を隠しているけれど、本来なら王家に連なる公爵家のご子息だ。

 どんぐりコーヒー。

 胡桃のクッキー。

 どちらも素朴な田舎のおやつでしかない。

 もっと豪華なお菓子を出すべきなのではないか。

 ふと不安になる。

「ヴェダー?」

 一匹のヴェダーが心配そうに葉っぱを傾けた。

「大丈夫かなぁ……」

 悩みながらも、焼きたてのクッキーを三枚、木皿へ並べる。

 どんぐりコーヒーを丁寧にドリップし、香ばしい香りが立ち上ったところでカップへ注いだ。

「お待たせしました」

 レオンは嬉しそうに頷く。

「ありがとうございます」

 まずコーヒーを一口。

 ふわりと香りを楽しむように目を閉じる。

「……美味しい」

 その一言に胸を撫で下ろした。

 続いて胡桃のクッキーを口へ運ぶ。

 サクッ。

 軽い音が店内へ響いた。

「胡桃の香りがいいですね」

「本当ですか?」

「ええ」

 レオンは穏やかに笑う。

「華やかな菓子も好きですが、私はこういう素朴な味の方が落ち着きます」

「良かった……」

 思わず本音が漏れた。

「実は、公爵家のご子息にこんな質素なものをお出ししていいのか、少し悩んでしまって」

 レオンは吹き出した。

「お気遣いなく」

 優しく首を振る。

「身分を忘れて、ここへ来られるから好きなんです」

 その言葉が嬉しかった。

 窓の外では、水車が今日もゆっくりと回っている。

 ゴトン。
 ゴトン。

 規則正しい音が風に乗って聞こえてくる。

 レオンも窓の外へ目を向けた。

「あの水車、町の名物になりましたね」

「おかげさまで」

「コーンスターチも順調ですか?」

「はい。毎日たくさん挽いています」

 ヴェダーたちも葉っぱを揺らして胸を張る。

「ヴェダー!」

 レオンは笑った。

「それから、歌うトマトも見ました」

「聞こえました?」

「市場でも噂ですよ」

 少し照れくさい。

「歌まで歌う野菜なんて初めて見ました」

「私もです」

 二人で笑う。

 その時だった。

 カラン、と鐘が鳴った。

「こんにちは」

 聞き慣れた声だった。

「テオさん」

 テオは資料を抱えたまま店へ入ってくる。

「書類を届けに……」

 そこでレオンへ気づいた。

「これは、レオンハルト様」

「こんにちは、テオ」

 自然な笑顔で挨拶を交わす。

 テオは軽く頭を下げた。

 レオンも穏やかに頷く。

 私は三人分のコーヒーを淹れようと席を外した。

 その背中を見送りながら、テオが静かに口を開く。

「レオンハルト様」

「何だい?」

「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

 レオンは微笑んだまま頷く。

「どうぞ」

 テオは銀縁眼鏡を指先で押し上げる。

「最近ずいぶん頻繁に、この店へいらっしゃっていますね」

「ああ」

「ラーメンがお気に召したのでしょうか」

 レオンはどんぐりコーヒーを一口飲み、ゆっくり答えた。

「もちろん料理も好きだ」

 窓から差し込む光が金色の髪を照らす。

「だが、それだけではない」

「……と、申しますと?」

 レオンはヴェダーたちが楽しそうに走り回る店内を見渡した。

 そして厨房で笑顔を浮かべながらコーヒーを淹れる私に静かに視線を向ける。

「この店へ来ると、不思議と心が安らぐ」

 その穏やかな言葉に、テオは小さく息を吐き、静かにコーヒーカップへ視線を落とした。