異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

夏の終わりを告げる風が、十勝平野の黄金色の草を波のように揺らしていた。

 ヴェダー亭の前でヴェダーたちと一緒に看板を磨いていると、遠くから乾いた蹄の音が響いてくる。

 ドドドドド……。

 土煙が舞い上がり、白樺林の向こうから一団の騎兵が姿を現した。

 槍の穂先が陽光を反射し、隊列の先頭には月桂樹の刺繍が施された深緑色の旗が風にはためいている。

 その紋章を見た瞬間、胸が小さくざわついた。

「……あれ」

 見覚えがある。

 月桂樹の紋章。

 オホーツク領で何度も見た旗だった。

「辺境伯......グリズリー......熊ちゃんの騎兵隊……」

 熊ちゃんの城でも掲げられていた旗だ。

 思わず立ち尽くしていると、二十騎ほどの騎馬隊が店の裏手の空き地へ入り、手際よく野営の準備を始めた。

 荷馬車を止め、天幕を張り、馬へ水を飲ませる。

 鎧が擦れる金属音が、静かな午後に響いた。

「ヴェダー……」

 ヴェダーたちは少し怖がり、私の後ろへ隠れる。

「大丈夫よ」

 葉っぱをそっと撫でると、小さく頷いた。

 しばらくすると、一人の大柄な男が店へ歩いてきた。

 四十代半ばほどだろうか。

 日に焼けた顔に立派な口髭。

 肩当てには銀色の月桂樹が彫られている。

 騎士団長らしい風格だった。

「失礼する」

「はい、いらっしゃいませ」

 私はエプロンで手を拭き、頭を下げる。

「急な願いで恐縮なのだが」

 騎士団長は申し訳なさそうに頭を掻いた。

「二十人分ほど食事を作っていただけないだろうか」

「二十人ですか?」

「明日の早朝には出立する。兵たちへ温かい食事を食べさせてやりたい」

 厨房を見回す。

 昨日仕込んだ野菜。

 畑で採れた真っ赤なトマト。

 玉ねぎ、人参、キャベツ。

 寸胴鍋なら十分間に合う。

「できます」

 私が笑顔で答えると、騎士団長の表情がぱっと明るくなった。

「本当か!」

「少しお時間をください」

◇◇◇

 私は急いで畑へ向かった。

 朝露を浴びたトマトが、赤い宝石のように輝いている。

「今日はみんなに頑張ってもらうよ」

 するとトマトたちは一斉に葉っぱを揺らした。

「♪みーんなで美味しくなるトマト♪」

「♪ヴェダー亭のトマト♪」

「はいはい、ありがとう」

 歌いながら実を揺らす姿に思わず笑ってしまう。

 赤く熟れたものだけを丁寧に籠へ入れる。

 ヴェダーたちも一生懸命運び始めた。

「ヴェダー!」

 チョボたちは虫をつつきながら畑を歩き回り、シマエナガは白樺の枝から「ジュリッ」と応援している。

◇◇◇

 店へ戻ると、大きな寸胴鍋へオリーブオイルを垂らした。

「いただきます」

 刻んだ玉ねぎを入れる。

 ジュワッ。

 甘い香りが立ち上る。

 続いて人参、キャベツ。

 最後に真っ赤なトマトを惜しみなく加えた。

 木べらでゆっくり混ぜる。

 トマトが崩れ始めると鮮やかな赤色へ変わっていく。

 昨日仕込んでおいたブイヨンを流し入れ、角うさぎの肉を加える。

 コトコト。

 コトコト。

 鍋いっぱいに夏野菜の甘い香りが広がった。

「ヴェダー」

 ヴェダーたちは鍋の周りをぐるぐる回りながら香りを楽しんでいる。

「もう少しだからね」

◇◇◇

 夕暮れ。

 野営地には木のテーブルが並び、兵士たちが笑いながら器を受け取っていた。

「温かいうちにどうぞ」

 二十杯のミネストローネ。

 真っ赤なスープの上には刻んだバジル。

 彩りも鮮やかだった。

 一口。

 二口。

 騎士たちは顔を見合わせる。

「なんだこれは!」

「トマトが甘い!」

「肉まで柔らかいぞ!」

「スープが止まらん!」

 次々と歓声が上がった。

 寸胴鍋はあっという間に空になる。

◇◇◇

 食後。

 騎士団長が店を訪ねてきた。

「店主殿」

「はい」

「特にあのトマト……」

 彼は畑を見つめる。

「一体どう育てればあんな味になる?」

「普通に育てていますけど……」

「普通ではない」

 そう言って畑へ歩いていく。

 その瞬間だった。

「♪さわっこの畑で獲れたトマト♪」

「♪あまくておいしいトマト♪」

 トマトたちが楽しそうに歌い始めた。

 騎士団長は固まる。

「……歌っている」

「ええ、最近はよく歌うんです」

「なんという畑だ……」

 しばらく呆然と眺めたあと、騎士団長は真剣な顔になった。

「お願いがある」

「はい?」

「このトマトを少し譲っていただけないだろうか」

「もちろんです」

「辺境伯グリズリー様へ献上したい」

 その言葉に、胸が少しだけ締め付けられた。

 熊ちゃんの城。

 もう戻ることはない場所。

 それでも。

 私が育てたトマトが届くのかと思うと、不思議な気持ちになる。

「……わかりました」

 私は物置から木箱を取り出した。

 柔らかい藁を敷き、一つひとつ傷がつかないように真っ赤なトマトを並べていく。

「元気でね」

「♪いってきまーす♪」

 トマトたちは嬉しそうに歌っている。

 私は苦笑しながら蓋を閉めた。

 辺境伯へ贈る木箱は、ずっしりとした重み以上に、言葉にできない想いを詰め込んでいるようだった。