もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

寸胴鍋の中で、野菜と角うさぎの骨がグツグツと音を立てて煮込まれていた。

 玉ねぎの甘い香り。

 人参の優しい香り。

 ローリエがふわりと鼻をくすぐる。

 さっきまで油の匂いが充満していた宿屋のキッチンは、いつの間にかどこか落ち着く香りに包まれていた。

 ギルは腕を組みながら寸胴鍋の中を覗き込み、不思議そうに眉をひそめる。

「爽子、こんなゴミを煮込んでどうするつもりだい?」

「ゴミじゃないわ」

 私は笑って首を振った。

「立派な食材よ」

 鍋の中には玉ねぎの皮、人参の皮、キャベツの芯、それに角うさぎの骨。

 さっきまで捨てられるはずだったものばかりだ。

「皮や骨には旨みがたくさん詰まっているの。捨てちゃうなんてもったいないでしょう?」

「そんなもんなのかねぇ」

 ギルは半信半疑のまま鍋を見つめている。

 本当なら、このまま一晩じっくり煮込みたい。

 そうすれば骨からもっと旨みが溶け出し、透き通った極上のブイヨンになる。

 でも今は宿屋の厨房を借りているだけ。

 そこまで時間はかけられない。

「気長に待ちましょう」

 私はそう言ってキッチンを離れ、ドワーフたちのテーブルへ腰を下ろした。

 彼らはすっかり打ち解けた様子でトランプを配っている。

「爽子、ポーカーは知ってるか?」

「少しなら」

「よし、勝負だ!」

 笑い声が食堂に響く。

 窓の外はすっかり夜になり、ランプの灯りが店内を柔らかく照らしていた。

 時折キッチンから立ち上る湯気と香りに、誰もがちらちらと寸胴鍋へ目を向ける。

「あんな美味い料理が作れるなんて、あんた魔法使いなのか?」

 カードを配りながらドワーフが尋ねた。

「魔法なんて使えないわ」

「でも、あの野菜炒めは魔法みたいだったぞ」

 周りの客たちもうんうんと頷いている。

 私は少し照れくさくなって笑った。

「私の国じゃ、あれが普通よ」

「普通だって!?」

「毎日あんな飯を食ってるのか!」

「うん」

 その一言で食堂中がどよめいた。

 ドワーフは目をきらきらと輝かせ、身を乗り出してくる。

「爽子の国へ行ってみてぇなぁ」

「きっと毎日食べ過ぎちゃうね」

 妖精までくすくす笑っている。

 そんな和やかな時間が流れているうちに、鍋の中から立ち上る香りが一段と濃くなってきた。

 ギルが鼻をひくひくと動かす。

「爽子、スープが煮えたみたいだよ。次はどうするんだい?」

「あっ、待って。塩と胡椒を用意して」

「また岩塩を削るのかい?」

「そう。ほんの少しだけね」

 私は立ち上がると髪を後ろで結び直し、キッチンへ入った。

 ミトンをはめる。

「よいしょ」

 寸胴鍋を持ち上げると、ずしりと腕へ重みが伝わった。

 大きなボウルの上へガーゼを重ね、ゆっくりと鍋の中身を注いでいく。

 さらさら、と黄金色の液体が静かな音を立てて流れ落ちた。

「おぉ……」

 誰かが感嘆の声を漏らす。

 野菜くずしか入っていなかった鍋から現れたのは、琥珀色に輝く透き通ったブイヨンだった。

 濁りはない。

 湯気とともに野菜の甘い香りが優しく広がる。

 私は削った岩塩をひとつまみ。

 黒胡椒を少々。

 木べらで静かにかき混ぜた。

 それだけ。

 それ以上、何も足さない。

「なんだこれは?」

 ギルは首を傾げる。

「ハーブティーみたいじゃないか。本当にこれがスープなのか?」

「そうよ」

 私は小さな器へ注ぎ、ギルへ差し出した。

「ブイヨンというの。味見してみて」

 ギルは恐る恐る器を受け取る。

 湯気の向こうで香りを嗅ぐと、驚いたように目を丸くした。

「いい匂いだ……」

 ゆっくりと口をつける。

 一口。

 二口。

 そのまま動きが止まった。

「……ギルさん?」

 私が声を掛けると、彼は震える手で器を見つめた。

「なんだ……これは」

 目尻に涙を浮かべながら、もう一度スープを口へ運ぶ。

 優しい甘み。

 角うさぎの旨み。

 野菜が持つ自然な香り。

 すべてが溶け合い、身体の奥までじんわりと染み渡っていく。

 ギルは勢いよく顔を上げた。

「なんだこれは!」

 食堂中へ響くほど大きな声だった。

「こんな美味いスープは、生まれて初めてだ!」