もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

私はまな板の上に並んだ野菜を見つめた。

 緑色のピーマン。

 艶のある玉ねぎ。

 土の香りを残した人参。

 みずみずしいキャベツ。

 どれも採れたてなのが一目で分かる。

「こんなに新鮮な野菜があるのに、もったいない」

 思わず独り言が漏れた。

 素材は一級品だ。

 それなのに、さっき食べたスープは塩辛いだけで、野菜の甘みも肉の旨みもどこにもなかった。

 料理は素材を隠すものじゃない。

 素材の良さを引き出すものだ。

 私は、この野菜たちの力を信じよう。

 味付けは、ほんの少しの塩と胡椒だけ。

 ピーマンのほろ苦さ。

 人参の甘み。

 玉ねぎの香り。

 キャベツの歯応え。

 一つひとつの個性を、そのまま味わってもらいたい。

「……さて、と」

 野菜炒めにはラードが必要だ。

 ラードの濃厚な旨みが野菜の個性をひとつにまとめ、全体を包み込んでくれる。

「ギルさん、ラードはありますか?」

「ラード? なんだい、そりゃ……そんなものはないね」

 ギルは首を傾げる。

 棚には深緑色のガラス瓶が並んでいた。

 蓋を開けて香りを嗅ぐ。

 ほんのり青臭く、オリーブオイルに似た香りがした。

 悪くない。

 でも今日は違う。

 もっと肉の旨みが欲しい。

 ふと視線の先に、脂身が多いと言われた角うさぎの肉が吊るされているのが見えた。

「これだ」

 包丁を握る。

 肉はまだほんのり温かく、指先へ脂がじんわりとまとわりついた。

 滑らないようにしっかり押さえ、赤身と脂身の境目へ刃を滑らせる。

 余計な力を入れなくても、脂はするりと剥がれていく。

 慣れた手つきで白い脂だけを切り分け、小さく刻んだ。

「おいおい、そこは捨てるところだぞ?」

 ギルが慌てて声を上げる。

「食っても美味くないぞ?」

「捨てちゃうんですか?」

 私は思わず聞き返した。

「もったいないですよ。ここが一番、美味しい油になるんです」

「油になる?」

 ギルだけじゃない。

 見物していたドワーフたちまで首を傾げている。

 私はフライパンを火にかけた。

 十分に温まったところで、角うさぎの脂身を入れる。

 じゅわっ。

 小さな泡が浮かび始める。

 ゆっくりと透明な脂が溶け出し、香ばしい香りがふわりと宿屋中へ広がった。

「なんだ、この匂い……」

「肉を焼いてるだけじゃねぇぞ」

 暖炉の前で酒を飲んでいたドワーフたちが、一人、また一人と立ち上がる。

 妖精たちまで羽を震わせながら、キッチンの上をふわふわ飛び始めた。

「これで、よし!」

 きつね色になった脂身を取り出し、透き通ったラードだけを残す。

 そこへ玉ねぎを放り込む。

 ジュワッ!

 今までとは違う軽快な音が響いた。

 続いて人参。

 キャベツ。

 最後にピーマン。

 勢いよくフライパンを振る。

 シャッ。

 シャッ。

 野菜が宙を舞い、熱々のラードをまとって輝いた。

「おぉ……」

 誰かが小さく声を漏らす。

 私は構わずフライパンを振り続ける。

 炒めすぎない。

 火を入れすぎない。

 野菜の色が鮮やかなまま仕上げる。

「塩はありますか?」

「これかい?」

 ギルが差し出した硝子のポッドには、拳ほどもある白い岩塩がごろんと入っていた。

「湖で採れた岩塩さ」

「なるほど……」

 だからスープがあんなに塩辛かったのか。

 そのまま鍋へ放り込めば、濃くなるのも当然だ。

 私はスプーンの背で岩塩を少しずつ削る。

 さらさらと白い粉が舞った。

 その塩を指でつまみ、野菜へふわりと振りかける。

 最後に黒胡椒をひとつまみ。

 湯気と一緒に香りが一気に立ち上った。

「うわぁ……」

 誰ともなく感嘆の声が漏れる。

 宿屋の中が静まり返っていた。

 さっきまでカードをしていた男たちも、酒を飲んでいたドワーフも、みんな私の手元だけを見つめている。

「……出来ました」

 大皿へ盛り付ける。

 緑。

 橙。

 白。

 艶やかな野菜が湯気をまとい、まるで宝石のように輝いていた。

「野菜炒めです」

 ギルはごくりと喉を鳴らした。

「これは……本当に食べられるのか?」

 恐る恐るフォークでピーマンを刺す。

 口へ運ぶ。

 シャクッ。

 肉厚のピーマンがみずみずしく弾けた。

 甘い。

 いや、その前に香ばしい。

 ラードの旨みが野菜を包み込み、そのあとからピーマン本来のほろ苦さと甘みが広がっていく。

 ギルの目が大きく見開かれた。

 今度は人参。

 玉ねぎ。

 キャベツ。

 そして角うさぎの肉。

 夢中になって次々と口へ運ぶ。

「……これは美味い!」

 思わず叫んだギルは皿を高く掲げた。

「みんなも食べてみてくれ!」

 食堂にいた宿泊客たちは、我先にとフォークを手に取った。
「こりゃあ、美味い!」
「野菜って、こんな味だったのか!」
「肉まで柔らかいぞ!」

 口の周りを脂でべたべたにしながら、夢中で皿をつついている。

 さっきまで「ギルの料理に敵うもんか」と笑っていたドワーフは、もう無言で野菜を頬張り、空になった皿を名残惜しそうに眺めていた。

「もう終わりか……」

 その呟きに、思わず私は笑みをこぼした。

「まだありますよ」

 私は残っていた野菜屑と角うさぎの骨を集め、大きめの寸胴鍋へ入れる。

 玉ねぎの皮、人参の皮、キャベツの芯。

 さっきまでなら捨てられていた食材たちだ。

 たっぷりと水を注ぎ、火加減を弱めてじっくり火にかける。

 やがて鍋の底からプクン、と大きな泡が浮かび上がり、静かに弾けた。

 ふわりと立ち上る湯気に、野菜の甘い香りが少しずつ混じり始める。

 その様子を見ていたギルは、眼鏡をずり下げながら寸胴鍋を覗き込んだ。

「爽子は魔法使いみたいだな。今度は何を作るんだい?」

 私は木べらで鍋をゆっくりとかき混ぜ、にっこりと笑う。

「コンソメスープを作ります」