もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

しばらく私の顔を見つめていたギルは、ふっと口元を緩めた。

「面白い。やってみな」

 そう言ってカウンターの扉を開ける。

 私は思わず胸を撫で下ろした。

 彼は店の奥へ引っ込むと、少し黄ばんだエプロンを持って戻ってきた。

「ほらよ」

「ありがとうございます」

 受け取ったエプロンからは、油と煙、それに料理の匂いが染みついていた。

 長い年月、この宿屋の台所を支えてきた証だ。

 その匂いを嗅いだ瞬間、熊ちゃんと肩を並べてラーメンを作っていた日々が鮮明に蘇る。

「スープ、味見して」

「今日のチャーシュー、最高だな」

 笑い合った記憶が胸を締めつけた。

「……だめ」

 私は小さく頭を横に振る。

 今は思い出に浸る時間じゃない。

 料理に集中しよう。

 キッチンを見回す。

 並んでいたのは緑色のピーマンによく似た野菜、玉ねぎ、人参、キャベツ、そして吊るされた肉の塊だった。

 ギルは腕を組み、お手並み拝見とばかりに私の手元を覗き込んでいる。

「この肉は何ですか?」

「角うさぎさ。鶏肉より脂身が多くて食べるところが少ないんだ。爽子は初めて見るかい?」

「……角が生えているのは、初めてです」

 私の知っているうさぎは、丸くてふわふわで、長い耳とつぶらな瞳が可愛い生き物だった。

 でも目の前に吊るされている角うさぎは違う。

 短い茶色の毛並みに、鋭い前歯。

 子犬ほどの大きさがあり、額にはユニコーンのような一本角が突き出ていた。

 正直、ちょっと怖い。

「……角に突かれたら痛そうですね」

「そりゃあ大変だ。畑を荒らす厄介者さ。でも、この角は砕いて粉にすると滋養強壮に効くんだ」

「へぇ……」

 異世界って、本当に何でもありなんだ。

 私は苦笑しながら野菜を洗い始めた。

 包丁でピーマンのヘタを落とす。

 その瞬間。

『ぎゃっ』

 そんな声が聞こえた気がした。

「えええっ......!」

 ピーマンがしゃべった!

「ギルさん!ピーマンがしゃべりました!」

 私は包丁を握る手に、力がこもった。

「......何を言っているんだい?」

「ピーマンがしゃべる......他の野菜もですか!?」

「そうだよ?」

 異世界なんだから、しゃべる野菜がいても不思議じゃない。

 けれど......しゃべる野菜に包丁を入れる勇気がない。

「ギルさん、このままだと可哀想で切れません」

「あぁ、『いただきます』って手を合わせるんだよ、そうすれば黙るから」

「そ......そうなんですね」

 夜になると彼らは畑で内緒話でもしているのかもしれない。

 命は大切にいただこう。

 そう思うことにして、中の白い種を指先で丁寧に取り除いた。

「玉ねぎ、使ってもいいですか?」

「ああ、好きなだけ使いな」

「いただきます」

 ぺり、ぺり、と茶色い皮を剥いていく。

 一枚。

 また一枚。

 熊ちゃんへの想いまで剥がしてしまうように。

 目に染みる。

「うぅ……」

 涙が滲んだ。

 玉ねぎのせい。

 きっと、そう。

「爽子は手つきがいいねぇ」

「ラーメン屋を営んでいましたから」

「ラーメン?」

 しまった。

 思わず口が滑った。

 やっぱり、この世界にはラーメンがない。

 ならば私が作る。

 ラーメンも、定食も、お酒に合う料理も。

 異世界で一番うまい食堂酒場を開くんだ。

「あー……料理屋で働いていたんです」

 慌てて言い直す。

「料理屋? バルみたいなもんか」

「はい、そんな感じです」

 人参はもう観念したようにぐったりしていて、キャベツだけが「ぶつぶつ」と呪文のようなものを唱えていた。

「いただきます」と手を合わせ、

 人参の皮を剥く。

 キャベツを半分に割る。

 野菜を一口大に切り揃え、銅製のフライパンの横へ並べる。

 切り落とした玉ねぎの皮、人参の皮、キャベツの芯は捨てない。

 寸胴鍋に水を張り、その中へ入れた。

 あとで野菜の旨味を引き出す。

 ギルは目を丸くしていた。

「皮まで使うのかい?」

「はい。ここにも美味しさが詰まっていますから」

「へぇ……」

 いつの間にか暖炉の前でポーカーをしていた男たちまで集まってきていた。

「なんだなんだ?」

「この姉ちゃんがギルの代わりに飯を作るらしいぞ」

「ギルの料理に敵うっこねぇ」

 ドワーフが焦げ茶色のスープをすすりながら、にやにや笑う。

 私はそのスープへ目を向けた。

 塩気ばかりで、素材の味はどこにも残っていない。

 こんなに新鮮な野菜があるのに。

 こんなに立派な肉があるのに。

 全部、もったいない。

 料理は素材を隠すものじゃない。

 素材を生かすものだ。

 私は静かに深呼吸をした。

 さあ、異世界で最初の一皿を作ろう。