もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

石畳。

 煉瓦造りの家々が立ち並ぶ。

 教会の前では、背の低いドワーフたちが静かに両手を組み、祈りを捧げていた。

 白樺の枝には透き通るような羽を持つ妖精たちが腰掛け、鈴の音のような澄んだ歌声を響かせている。

 町を行き交う人々は、皆どこか人間とは違っていた。

 尖った耳。

 緑や青、銀色の髪。

 大きな尻尾を揺らす獣人まで歩いている。

 さっきまで日本にいた私には、まるで絵本の中へ迷い込んでしまったような光景だった。

「……異世界なんだ」

 ようやく実感が湧いてきた。

 熊ちゃんが言っていたことは、本当だったんだ。

 私は大きく息を吐いた。

「……とりあえず、泊まる宿よね」

 立ち止まっていても始まらない。

 噴水のある中央広場には大きな案内掲示板が立っていた。

 木製の地図には町並みが細かく描かれ、宿屋や商店、教会、市場の場所が書き込まれている。

 指先で地図を辿っていく。

「あった」

 町の外れに一軒だけ宿屋が描かれていた。

 歩き始めると、石畳をコツコツと魔法の靴が軽やかに鳴らす。

 道端では野菜を売る露店が並び、見たこともない紫色の人参や拳ほどもある木苺が籠いっぱいに積まれていた。野菜たちはブツブツと何かをしゃべっている。

 焼いた肉の匂いも漂ってくる。

 でも、どこか違う。

 食欲を刺激する香りがしない。

 料理というより、ただ焼いただけ。

 そんな印象だった。

 やがて目的の宿屋が見えてきた。

 薄汚れた赤い屋根。

 こぢんまりとした二階建て。

 軒先には宿泊客のものらしい馬が数頭つながれている。

「すみません、部屋の空きはありますか?」

 木戸を開ける。

 ギィ、と古びた蝶番が鳴いた。

 中へ入った瞬間、煙草の煙がふわりとまとわりつく。

 暖炉の前では髭を生やした男たちがカードを広げ、大笑いしながら酒を飲んでいた。

 カウンターの奥では、丸眼鏡をかけた背中の曲がった老人がグラスを磨いている。

「いらっしゃい」

 老人は顔を上げると、私を見て眼鏡を少しずり下げた。

「お客さん、変わった格好だねぇ」

「……そうですか?」

 見下ろすと、私はオーバーオールにフード付きパーカー。

 確かに鎧やローブばかりのこの町では、かなり浮いている。

 老人はくすっと笑った。

「まあ、旅人なんて変わり者ばかりさ」

 その言葉に少しだけ肩の力が抜けた。

 老人の名前はギル。

 黄ばんだエプロンで手を拭きながらカウンターから出てくる。

「今夜、泊まりたいんですけど……部屋、空いてますか?」

「空いてるよ。好きな部屋を使いな」

 私は金貨を一枚差し出した。

 ギルは目を丸くした。

「おっと、前払いとは気前がいい」

「足りますか?」

「十分すぎるくらいさ」

 そう言って笑いながら二階へ案内してくれた。

 ギシギシと鳴る木の階段。

 少し埃っぽい廊下。

 年季の入った宿だけれど、不思議と嫌な感じはしない。

「この部屋なら町が見えるよ」

「ありがとうございます」

 蝶番が軋みながら扉が開く。

 小さなベッド。

 木の机と椅子。

 窓辺には花瓶がひとつ。

 ランプの灯りが部屋を優しく照らしていた。

「すみません。この町の名前を教えていただけますか?」

「旅の人かね?」

 ギルは少し驚いたように笑う。

「ここはオホーツク領、ア・バシリーの町だよ」

「網走……」

 思わず窓の外を見る。

 熊ちゃんは辺境伯だった。

 辺境というだけあって、本当に北海道の端の端なんだ。

「せめて札幌……いや、旭川だったらよかったのに」

 思わず苦笑する。

 窓を開けると夜風が頬を撫でた。

 遠くからパンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。

 聞こえてくるのは酒場の笑い声。

 馬のいななき。

 妖精たちの歌。

「……はぁ」

 ベッドへ倒れ込む。

 少し硬い。

 でも、それ以上に胸が痛かった。

 今日一日の出来事が走馬灯のように頭を巡る。

 熊ちゃん。

 やっと会えたと思ったのに。

 何十年も待っていたと言ったのに。

 隣には別の女性がいた。

「なんでよ……」

 目頭が熱くなる。

 涙が頬を伝い、枕へ染み込んでいく。

「あんなに探したのに……」

 四十五日。

 毎日探した。

 生きていてくれるだけでよかった。

 それなのに。

 胸が締め付けられ、嗚咽が漏れる。

 しばらく泣いた。

 泣いて。

 泣いて。

 ようやく少しだけ気持ちが落ち着いた頃。

「おーい! 爽子さん! 降りておいで!」

 階下からギルの大きな声が聞こえた。

「はっ!」

 慌てて起き上がる。

 涙を袖で拭う。

 強くならなくちゃ。

「はーい!」

 鏡を覗き込み、腫れた目を隠すように前髪を整えた。

 髪をゴムで結び直す。

 パーカーのフードを整える。

 オーバーオールについた埃を払い、深呼吸した。

 階段の手すりに手を掛ける。

 食堂ではドワーフや妖精たちが陽気に酒を酌み交わしていた。

 誰もが笑っている。

 その笑顔を見ていると、少しだけ元気が湧いてくる。

 一番隅のテーブルへ腰掛けると、ギルが木のトレーを運んできた。

「ほら、うちの自慢の夕飯だ」

 丸いパンと焦茶色のスープ。

 悲しいことがあっても、お腹は減る。

「いただきます」

 両手を合わせ、パンを持ち上げた。

「……硬い」

 石でも持ったのかと思うほど重い。

 半分に割ろうとしてもびくともしない。

 思い切ってかぶりつく。

「いたっ」

 歯が負けた。

 しかも、ほんのりと酸っぱく、どこか湿った匂いがする。

「これは……」

 なんとか千切ってスープへ浸す。

 口に入れる。

 次の瞬間、思わず顔が引きつった。

「しょっぱい……」

 塩気ばかりが舌を刺す。

 喉越しはざらつき、豆なのか芋なのか分からない具材は煮崩れているだけ。

 肉の旨味も、野菜の甘みも感じられない。

 料理人として自然と頭の中で分析してしまう。

 出汁がない。

 香草の使い方も雑。

 素材は悪くないのに、全部殺してしまっている。

「味が……わからない……なに、このスープ……」

 ギルは「美味いだろ?」と言わんばかりに肘をつき、にこにこと私を見ていた。

 悪気なんてない。

 この世界では、これが普通なんだ。

 だからこそ――。

 あまりにも、もったいない。

 こんなに豊かな土地なのに、こんなにも料理がまずいなんて。

 もったいない。

 私はナフキンで口を拭き、静かにスプーンを皿へ置いた。

 椅子から立ち上がる。

 そしてカウンターへ歩み寄り、まっすぐギルの目を見つめた。

「ギルさん」

「なんだい?」

「私に料理をさせていただけませんか?」