「……これは、根が腐っていますね。水やりはどんな感じでしていましたか?」
しゃがみ込んだ男性は、トマトの根元を指先でそっと掘り返した。
白いカビのようなものを摘まみ上げ、土の匂いを確かめるように鼻先へ近付ける。
それから傷んだ根を一本、静かに見つめた。
無駄な動きがない。
手慣れている。
「毎日、苗を植えてから朝と夕方にたっぷりあげていました」
私は少し自信なさそうに答えた。
「暑くなると可哀想かなって思って……」
男性は小さく頷いた。
「そうですか……」
そのまましばらく黙り込む。
私まで何となく緊張してしまう。
彼の名前は『テオ』と言った。
農業ギルドで働いている職員らしい。
年は二十代後半くらいだろうか。
黒髪をきちんと後ろへ流し、銀縁眼鏡を掛けている。
背筋は真っ直ぐで、服装にも乱れがない。
神経質そうで、どちらかというと無口。
必要最低限のことしか話さない人だった。
その静かな雰囲気のせいか。
七匹のヴェダーたちは店の出窓へ並び、こそこそとこちらを覗いている。
「ヴェダー……」
一匹が葉っぱだけを窓から出す。
その横では巨大なシマエナガまで首だけ出していた。
「ジュリ……」
どうやら二人とも警戒しているらしい。
私は思わず苦笑する。
「大丈夫だよ」
そう声を掛けても、ヴェダーたちは引っ込まない。
じっとテオの後ろ姿を見つめていた。
テオは傷んだ苗を一本持ち上げる。
「苗を植えてすぐに水を……」
ぽつりと呟く。
それから。
ふう、と大きく息を吐いた。
右手で前髪を掻き上げる。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、少しだけ厳しく細められた。
「名前は……」
「あ、爽子です」
私は慌てて頭を下げる。
「上田爽子といいます」
「上田さんですね」
ようやく名前を呼んでもらえた。
テオは立ち上がり、畑全体を見渡す。
「日当たりは問題ありません」
空を見上げる。
「風通しも悪くないですね」
白樺の葉が風に揺れている。
「この場所なら十分育ちます」
「本当ですか?」
「はい」
少しだけ頷く。
「ですが」
その一言で、私はまた背筋を伸ばした。
「トマトは乾燥気味に育てる野菜です」
「え?」
「水を与え過ぎています」
私は目を丸くした。
「そうなんですか?」
「はい」
テオは土を指差す。
「まだ湿っています」
指先で軽く触れる。
「この状態で朝夕二回も水を与えると、根が呼吸できません」
「呼吸……」
「根腐れを起こします」
私は思わず萎れた苗を見る。
「だから……」
「ええ」
静かに頷いた。
「上田さんが悪いわけではありません」
その言葉に少しだけ胸が軽くなる。
「初めて野菜を育てる方は、水をたくさんあげた方が元気になると思われますから」
「私もそう思ってました……」
「お気持ちは分かります」
テオは珍しく少しだけ表情を和らげた。
「ですが逆です」
私はポケットから小さなメモ帳を取り出した。
「少し待ってください」
鉛筆を握る。
「忘れちゃいそうなので」
そう言うと、テオは少し驚いたように瞬きをした。
私は急いで書く。
『水は土の表面が乾いてから』
するとテオが補足するように言った。
「指で土を触ってください」
「はい」
「一センチほど乾いていたら、その時たっぷり与えます」
「乾いたら、たっぷり……」
私は何度も頷きながら書き留める。
「毎日ではなく、土を見て判断してください」
「なるほど」
畑も人と同じなんだ。
喉が渇いた時に水を飲む。
何でもやり過ぎは良くない。
私は改めて畑を見渡した。
テオは続ける。
「あと」
少し歩いて隣の空いた畝を指差した。
「ここへバジルを植えてください」
「バジル?」
「はい」
「どうしてですか?」
「相性が良いんです」
簡潔な返事だった。
「害虫予防になります」
「へぇ」
「それに」
ほんの少し口元が緩む。
「トマトの味も良くなると言われています」
「ええ!」
私は思わず声を上げた。
「そうなんですね!」
トマトとバジル。
確かにマルゲリータピザにも使う。
カプレーゼもそうだ。
日本でも相性抜群だった。
「テオさん、物知りなんですね!」
思わず顔を覗き込む。
すると。
テオはぴたりと動きを止めた。
「あ……」
少しだけ目を逸らす。
右手で口元を隠すように押さえた。
「……仕事ですから」
照れている。
表情は変わらないのに、耳だけ少し赤くなっていた。
私は何だか可笑しくなってしまう。
「ありがとうございます!」
深く頭を下げる。
「本当に助かりました」
テオも小さく会釈を返した。
診断が終わったので、私は店の方を振り返る。
「せっかくですし」
厨房から漂うコーヒーの香りに気付く。
「店でコーヒーでも飲んでいきませんか?」
テオは一瞬だけ店を見る。
窓から七匹のヴェダーと巨大なシマエナガがじっとこちらを見ていた。
「ヴェダー」
「ジュリ」
歓迎しているのか警戒しているのか分からない。
テオは小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
一呼吸置いてから答える。
「ですが」
「勤務中ですので」
丁寧な口調だった。
「また改めて伺います」
「そっか」
私は少し残念だったけれど、笑顔で頷いた。
「それじゃあ、また今度いらしてください」
「はい」
「今度こそ、トマトを収穫して、美味しいピザをご馳走します!」
その言葉に。
テオは少しだけ目を細めた。
「楽しみにしております」
深々と頭を下げる。
本当に真面目な人なんだな。
そんなことを思いながら、私は畑を後にした。
◇◇◇
「せっかくなので」
私は提案する。
「このまま市場へ行って、新しい苗を買ってきます」
「でしたら私も同行します」
テオは即座に答えた。
「植え付け前に確認できますので」
「お願いします」
二人で市場へ向かう。
朝市は今日も活気に溢れていた。
野菜を並べる人。
焼きたてのパンを売る人。
魚を捌く音。
あちこちから威勢のいい声が聞こえてくる。
種苗屋のおじさんは私たちを見るなり笑った。
「おっ、ギルドのお兄さん連れてきたか」
「はい」
事情を説明すると、おじさんは元気そうな苗を一本一本選んでくれた。
「一番花付きがいいのはこれだ」
黄色い花が咲いたトマト苗。
それから。
「バジルも忘れるなよ」
香りのいい苗を数株。
木箱へ丁寧に並べてくれた。
「ありがとうございます」
私は木箱を持ち上げる。
「よいしょ!」
その瞬間だった。
「わっ」
思った以上に重い。
足元がぐらりと揺れる。
木箱が傾く。
苗が倒れそうになった。
その瞬間。
すっと伸びた腕が私の肩を支えた。
「危ない」
力強い腕だった。
私は転ばずに済み、木箱も無事だった。
「あ……ありがとうございます」
慌ててお礼を言う。
テオは木箱を見つめ、ほっと息を吐く。
「いえ」
静かな声で答えた。
「苗が傷まなくて良かったです」
私は思わず笑ってしまう。
「私じゃなくて苗なんですね」
「……」
テオは一瞬だけ固まる。
それから眼鏡を押し上げた。
「もちろん、上田さんもです」
少しだけ言い直したその横顔は、熟れ始めたトマトのようにほんのり赤く染まっていた。
しゃがみ込んだ男性は、トマトの根元を指先でそっと掘り返した。
白いカビのようなものを摘まみ上げ、土の匂いを確かめるように鼻先へ近付ける。
それから傷んだ根を一本、静かに見つめた。
無駄な動きがない。
手慣れている。
「毎日、苗を植えてから朝と夕方にたっぷりあげていました」
私は少し自信なさそうに答えた。
「暑くなると可哀想かなって思って……」
男性は小さく頷いた。
「そうですか……」
そのまましばらく黙り込む。
私まで何となく緊張してしまう。
彼の名前は『テオ』と言った。
農業ギルドで働いている職員らしい。
年は二十代後半くらいだろうか。
黒髪をきちんと後ろへ流し、銀縁眼鏡を掛けている。
背筋は真っ直ぐで、服装にも乱れがない。
神経質そうで、どちらかというと無口。
必要最低限のことしか話さない人だった。
その静かな雰囲気のせいか。
七匹のヴェダーたちは店の出窓へ並び、こそこそとこちらを覗いている。
「ヴェダー……」
一匹が葉っぱだけを窓から出す。
その横では巨大なシマエナガまで首だけ出していた。
「ジュリ……」
どうやら二人とも警戒しているらしい。
私は思わず苦笑する。
「大丈夫だよ」
そう声を掛けても、ヴェダーたちは引っ込まない。
じっとテオの後ろ姿を見つめていた。
テオは傷んだ苗を一本持ち上げる。
「苗を植えてすぐに水を……」
ぽつりと呟く。
それから。
ふう、と大きく息を吐いた。
右手で前髪を掻き上げる。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、少しだけ厳しく細められた。
「名前は……」
「あ、爽子です」
私は慌てて頭を下げる。
「上田爽子といいます」
「上田さんですね」
ようやく名前を呼んでもらえた。
テオは立ち上がり、畑全体を見渡す。
「日当たりは問題ありません」
空を見上げる。
「風通しも悪くないですね」
白樺の葉が風に揺れている。
「この場所なら十分育ちます」
「本当ですか?」
「はい」
少しだけ頷く。
「ですが」
その一言で、私はまた背筋を伸ばした。
「トマトは乾燥気味に育てる野菜です」
「え?」
「水を与え過ぎています」
私は目を丸くした。
「そうなんですか?」
「はい」
テオは土を指差す。
「まだ湿っています」
指先で軽く触れる。
「この状態で朝夕二回も水を与えると、根が呼吸できません」
「呼吸……」
「根腐れを起こします」
私は思わず萎れた苗を見る。
「だから……」
「ええ」
静かに頷いた。
「上田さんが悪いわけではありません」
その言葉に少しだけ胸が軽くなる。
「初めて野菜を育てる方は、水をたくさんあげた方が元気になると思われますから」
「私もそう思ってました……」
「お気持ちは分かります」
テオは珍しく少しだけ表情を和らげた。
「ですが逆です」
私はポケットから小さなメモ帳を取り出した。
「少し待ってください」
鉛筆を握る。
「忘れちゃいそうなので」
そう言うと、テオは少し驚いたように瞬きをした。
私は急いで書く。
『水は土の表面が乾いてから』
するとテオが補足するように言った。
「指で土を触ってください」
「はい」
「一センチほど乾いていたら、その時たっぷり与えます」
「乾いたら、たっぷり……」
私は何度も頷きながら書き留める。
「毎日ではなく、土を見て判断してください」
「なるほど」
畑も人と同じなんだ。
喉が渇いた時に水を飲む。
何でもやり過ぎは良くない。
私は改めて畑を見渡した。
テオは続ける。
「あと」
少し歩いて隣の空いた畝を指差した。
「ここへバジルを植えてください」
「バジル?」
「はい」
「どうしてですか?」
「相性が良いんです」
簡潔な返事だった。
「害虫予防になります」
「へぇ」
「それに」
ほんの少し口元が緩む。
「トマトの味も良くなると言われています」
「ええ!」
私は思わず声を上げた。
「そうなんですね!」
トマトとバジル。
確かにマルゲリータピザにも使う。
カプレーゼもそうだ。
日本でも相性抜群だった。
「テオさん、物知りなんですね!」
思わず顔を覗き込む。
すると。
テオはぴたりと動きを止めた。
「あ……」
少しだけ目を逸らす。
右手で口元を隠すように押さえた。
「……仕事ですから」
照れている。
表情は変わらないのに、耳だけ少し赤くなっていた。
私は何だか可笑しくなってしまう。
「ありがとうございます!」
深く頭を下げる。
「本当に助かりました」
テオも小さく会釈を返した。
診断が終わったので、私は店の方を振り返る。
「せっかくですし」
厨房から漂うコーヒーの香りに気付く。
「店でコーヒーでも飲んでいきませんか?」
テオは一瞬だけ店を見る。
窓から七匹のヴェダーと巨大なシマエナガがじっとこちらを見ていた。
「ヴェダー」
「ジュリ」
歓迎しているのか警戒しているのか分からない。
テオは小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
一呼吸置いてから答える。
「ですが」
「勤務中ですので」
丁寧な口調だった。
「また改めて伺います」
「そっか」
私は少し残念だったけれど、笑顔で頷いた。
「それじゃあ、また今度いらしてください」
「はい」
「今度こそ、トマトを収穫して、美味しいピザをご馳走します!」
その言葉に。
テオは少しだけ目を細めた。
「楽しみにしております」
深々と頭を下げる。
本当に真面目な人なんだな。
そんなことを思いながら、私は畑を後にした。
◇◇◇
「せっかくなので」
私は提案する。
「このまま市場へ行って、新しい苗を買ってきます」
「でしたら私も同行します」
テオは即座に答えた。
「植え付け前に確認できますので」
「お願いします」
二人で市場へ向かう。
朝市は今日も活気に溢れていた。
野菜を並べる人。
焼きたてのパンを売る人。
魚を捌く音。
あちこちから威勢のいい声が聞こえてくる。
種苗屋のおじさんは私たちを見るなり笑った。
「おっ、ギルドのお兄さん連れてきたか」
「はい」
事情を説明すると、おじさんは元気そうな苗を一本一本選んでくれた。
「一番花付きがいいのはこれだ」
黄色い花が咲いたトマト苗。
それから。
「バジルも忘れるなよ」
香りのいい苗を数株。
木箱へ丁寧に並べてくれた。
「ありがとうございます」
私は木箱を持ち上げる。
「よいしょ!」
その瞬間だった。
「わっ」
思った以上に重い。
足元がぐらりと揺れる。
木箱が傾く。
苗が倒れそうになった。
その瞬間。
すっと伸びた腕が私の肩を支えた。
「危ない」
力強い腕だった。
私は転ばずに済み、木箱も無事だった。
「あ……ありがとうございます」
慌ててお礼を言う。
テオは木箱を見つめ、ほっと息を吐く。
「いえ」
静かな声で答えた。
「苗が傷まなくて良かったです」
私は思わず笑ってしまう。
「私じゃなくて苗なんですね」
「……」
テオは一瞬だけ固まる。
それから眼鏡を押し上げた。
「もちろん、上田さんもです」
少しだけ言い直したその横顔は、熟れ始めたトマトのようにほんのり赤く染まっていた。

