「はぁ……はぁ……はぁ……」
私は息を切らしながら白樺の林を駆け抜けた。
店から離れたい。
今はそれだけしか頭になかった。
足は自然と市場へ向かっている。
あの声から逃げるように。
「上田――」
「ひっ!」
また聞こえた気がして、思わず肩を震わせる。
振り返る。
誰もいない。
白樺の幹が何本も並び、木漏れ日が地面へ揺れているだけだった。
「気のせい……?」
でも心臓はまだ速く鳴っている。
私は石畳の階段を一段飛ばしで駆け上がった。
足がもつれそうになる。
胸が苦しい。
額から汗が流れ、頬を伝って首筋へ落ちていく。
「はぁ……」
立ち止まって深呼吸する。
その時。
ガサッ。
茂みの中から角うさぎが飛び出した。
「きゃっ!」
驚いて一歩後ずさる。
角うさぎは私を一度だけ見上げると、ぴょんぴょんと林の奥へ逃げていった。
その物音に驚いたのか、白樺の枝へ止まっていたセキレイが一斉に羽ばたく。
チュンッ。
青空へ吸い込まれるように飛んでいった。
私は胸へ手を当てる。
「びっくりした……」
思わず苦笑する。
少し神経質になり過ぎているのかもしれない。
「一体、なんなの……あれ」
恐る恐る後ろを振り返る。
林の向こう。
遠くに、私の店が見えた。
大きな椎木に守られるように建つ、青い屋根の小さな食堂。
ところどころペンキが剥げ、木肌が見えている。
昼間に見ると、不気味だった朝の印象とは少し違って見えた。
「……屋根にペンキでも塗るか」
ぽつりと呟く。
綺麗になれば雰囲気も変わる。
店の中まで明るい気持ちになれるかもしれない。
掃除もした。
家具も揃えた。
次は外観だ。
私は気持ちを切り替え、再び市場へ向かった。
◇◇◇
十勝の市場は今日も大勢の人で賑わっていた。
肉を焼く香ばしい匂い。
焼き立てパンの甘い香り。
香辛料の刺激的な匂いまで風に混じっている。
噴水広場では大道芸人が細い綱の上を歩き、周囲を囲んだドワーフたちが大きな拍手を送っていた。
「おぉー!」
「すげぇ!」
獣人の子どもたちは歓声を上げながら走り回る。
妖精たちは赤い風船へつかまり、空中をふわふわ漂っていた。
昨日まで怖いと感じていた市場が、今日は少しだけ落ち着いて見える。
「大丈夫」
私は自分へ言い聞かせる。
「昼間だもの」
きっと変なことなんて起きない。ふと、金髪、碧眼の彼を思い出す。
私は日用雑貨の露店へ足を止めた。
棚には縄や桶、木槌、釘、刷毛が所狭しと並んでいる。
店番をしていたのは立派な髭を蓄えたドワーフだった。
「いらっしゃい!」
声まで豪快だ。
「何か探し物かい?」
「ペンキはありますか?」
「ペンキ?」
店主は顎髭を撫でながら少し考えた。
「ああ、あったな」
店の奥へ入っていく。
ゴソゴソ。
ガタガタ。
木箱をひっくり返す音が聞こえた。
「これだ!」
持ってきたのは少し錆びた缶だった。
蓋にも埃が積もっている。
店主は手でパンパンと払う。
すると缶へ描かれていた鮮やかな青色が姿を現した。
夏の空みたいに澄んだ青だった。
「……綺麗な色ですね」
思わず見惚れる。
今の屋根より少し明るい。
塗り替えたらきっと素敵になる。
「古い在庫だからな」
店主は笑う。
「安くまけとくよ」
「本当ですか?」
「ああ」
私は銀貨を数枚渡した。
店主は刷毛も一本添えてくれる。
「はいよ」
「ありがとうございます」
大事そうに缶を抱える。
これで店が少し明るくなる。
そんな気がした。
店主は私をじっと見つめた。
「お前さん」
「はい?」
「椎木の店へ越してきた嬢ちゃんだろ?」
もう覚えられていたらしい。
私は少し嬉しくなって笑顔になる。
「はい!」
ぺこりと頭を下げる。
「上田爽子といいます。よろしくお願いいたします」
「はっはっは!」
店主は豪快に笑った。
「元気がいいな!」
「ありがとうございます」
「食堂酒場を始めるって聞いたぞ」
もう噂になっているらしい。
町は思っていたよりずっと狭い。
「はい」
「ヴェダー亭という名前です」
「ヴェダー亭か」
店主は何度か口の中で繰り返した。
「覚えやすくていい名前だ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
自然と笑みがこぼれる。
店主は腕を組み、青いペンキ缶を見つめた。
「でもなぁ」
「はい?」
「一人で屋根を塗るのは骨が折れるぞ」
確かに二階建てだ。
脚立も必要になる。
「そうですよね」
少し困った顔をすると、店主は目尻へ深い皺を寄せた。
「よければ手伝いに行こうか?」
「えっ?」
思わず聞き返す。
「わしだけじゃない」
親指で後ろを指差した。
店の奥では若いドワーフたちが荷物を運んでいる。
「暇な奴が二、三人いるからな」
にやりと笑う。
「昼飯でもご馳走してくれりゃ十分だ」
私は目を丸くした。
「そんな……」
昨日引っ越してきたばかりの私に、ここまで親切にしてくれるなんて思ってもみなかった。
胸がじんわり温かくなる。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「でも、お昼くらいじゃ足りません」
私は笑った。
「完成したら、ヴェダー亭で一番美味しい料理をご馳走します」
店主は嬉しそうに大笑いした。
「よし!」
拳を握る。
「それなら張り切って塗らんとな!」
その豪快な笑い声につられて、私も思わず笑っていた。
さっきまで胸を締め付けていた不安が、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。
私は息を切らしながら白樺の林を駆け抜けた。
店から離れたい。
今はそれだけしか頭になかった。
足は自然と市場へ向かっている。
あの声から逃げるように。
「上田――」
「ひっ!」
また聞こえた気がして、思わず肩を震わせる。
振り返る。
誰もいない。
白樺の幹が何本も並び、木漏れ日が地面へ揺れているだけだった。
「気のせい……?」
でも心臓はまだ速く鳴っている。
私は石畳の階段を一段飛ばしで駆け上がった。
足がもつれそうになる。
胸が苦しい。
額から汗が流れ、頬を伝って首筋へ落ちていく。
「はぁ……」
立ち止まって深呼吸する。
その時。
ガサッ。
茂みの中から角うさぎが飛び出した。
「きゃっ!」
驚いて一歩後ずさる。
角うさぎは私を一度だけ見上げると、ぴょんぴょんと林の奥へ逃げていった。
その物音に驚いたのか、白樺の枝へ止まっていたセキレイが一斉に羽ばたく。
チュンッ。
青空へ吸い込まれるように飛んでいった。
私は胸へ手を当てる。
「びっくりした……」
思わず苦笑する。
少し神経質になり過ぎているのかもしれない。
「一体、なんなの……あれ」
恐る恐る後ろを振り返る。
林の向こう。
遠くに、私の店が見えた。
大きな椎木に守られるように建つ、青い屋根の小さな食堂。
ところどころペンキが剥げ、木肌が見えている。
昼間に見ると、不気味だった朝の印象とは少し違って見えた。
「……屋根にペンキでも塗るか」
ぽつりと呟く。
綺麗になれば雰囲気も変わる。
店の中まで明るい気持ちになれるかもしれない。
掃除もした。
家具も揃えた。
次は外観だ。
私は気持ちを切り替え、再び市場へ向かった。
◇◇◇
十勝の市場は今日も大勢の人で賑わっていた。
肉を焼く香ばしい匂い。
焼き立てパンの甘い香り。
香辛料の刺激的な匂いまで風に混じっている。
噴水広場では大道芸人が細い綱の上を歩き、周囲を囲んだドワーフたちが大きな拍手を送っていた。
「おぉー!」
「すげぇ!」
獣人の子どもたちは歓声を上げながら走り回る。
妖精たちは赤い風船へつかまり、空中をふわふわ漂っていた。
昨日まで怖いと感じていた市場が、今日は少しだけ落ち着いて見える。
「大丈夫」
私は自分へ言い聞かせる。
「昼間だもの」
きっと変なことなんて起きない。ふと、金髪、碧眼の彼を思い出す。
私は日用雑貨の露店へ足を止めた。
棚には縄や桶、木槌、釘、刷毛が所狭しと並んでいる。
店番をしていたのは立派な髭を蓄えたドワーフだった。
「いらっしゃい!」
声まで豪快だ。
「何か探し物かい?」
「ペンキはありますか?」
「ペンキ?」
店主は顎髭を撫でながら少し考えた。
「ああ、あったな」
店の奥へ入っていく。
ゴソゴソ。
ガタガタ。
木箱をひっくり返す音が聞こえた。
「これだ!」
持ってきたのは少し錆びた缶だった。
蓋にも埃が積もっている。
店主は手でパンパンと払う。
すると缶へ描かれていた鮮やかな青色が姿を現した。
夏の空みたいに澄んだ青だった。
「……綺麗な色ですね」
思わず見惚れる。
今の屋根より少し明るい。
塗り替えたらきっと素敵になる。
「古い在庫だからな」
店主は笑う。
「安くまけとくよ」
「本当ですか?」
「ああ」
私は銀貨を数枚渡した。
店主は刷毛も一本添えてくれる。
「はいよ」
「ありがとうございます」
大事そうに缶を抱える。
これで店が少し明るくなる。
そんな気がした。
店主は私をじっと見つめた。
「お前さん」
「はい?」
「椎木の店へ越してきた嬢ちゃんだろ?」
もう覚えられていたらしい。
私は少し嬉しくなって笑顔になる。
「はい!」
ぺこりと頭を下げる。
「上田爽子といいます。よろしくお願いいたします」
「はっはっは!」
店主は豪快に笑った。
「元気がいいな!」
「ありがとうございます」
「食堂酒場を始めるって聞いたぞ」
もう噂になっているらしい。
町は思っていたよりずっと狭い。
「はい」
「ヴェダー亭という名前です」
「ヴェダー亭か」
店主は何度か口の中で繰り返した。
「覚えやすくていい名前だ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
自然と笑みがこぼれる。
店主は腕を組み、青いペンキ缶を見つめた。
「でもなぁ」
「はい?」
「一人で屋根を塗るのは骨が折れるぞ」
確かに二階建てだ。
脚立も必要になる。
「そうですよね」
少し困った顔をすると、店主は目尻へ深い皺を寄せた。
「よければ手伝いに行こうか?」
「えっ?」
思わず聞き返す。
「わしだけじゃない」
親指で後ろを指差した。
店の奥では若いドワーフたちが荷物を運んでいる。
「暇な奴が二、三人いるからな」
にやりと笑う。
「昼飯でもご馳走してくれりゃ十分だ」
私は目を丸くした。
「そんな……」
昨日引っ越してきたばかりの私に、ここまで親切にしてくれるなんて思ってもみなかった。
胸がじんわり温かくなる。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「でも、お昼くらいじゃ足りません」
私は笑った。
「完成したら、ヴェダー亭で一番美味しい料理をご馳走します」
店主は嬉しそうに大笑いした。
「よし!」
拳を握る。
「それなら張り切って塗らんとな!」
その豪快な笑い声につられて、私も思わず笑っていた。
さっきまで胸を締め付けていた不安が、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。

