厳つい甲冑を着た耳の尖った衛兵たち。
私の行く手を槍で遮ることもなく、その後ろ姿を茫然と見送っている。
「熊ちゃんの妻」だった私は、今は何者でもない一人の女として城を出ていく。
誰も止めない。
止められないのか、それとも止める理由がないのか。
どちらにしても、もう振り返るつもりはなかった。
大理石の床に素足がひんやりと冷たい。
一歩踏み出すたび、冷たさが足裏から伝わってくる。
そういえば、ここへ来た時の私は部屋着のままだった。
靴なんて履いていない。
こんな格好で異世界を歩くなんて、少し前まで想像もしなかった。
私はこれからどこへ向かうのだろう。
宿はあるのだろうか。
言葉は通じるのだろうか。
お金は使えるのだろうか。
考えれば考えるほど、不安ばかりが胸の中で膨らんでいく。
でも。
今さら熊ちゃんのところへ戻るつもりはなかった。
重厚なマホガニーの大きな扉が、ギギギと鈍い音を立てて開く。
一筋の眩しい光に目を細めた。
外の空気が頬を撫でる。
少し冷たい。
でもどこか懐かしい匂いだった。
森の香り。
土の匂い。
遠くから流れてくる澄んだ川の気配。
まるで北海道の朝みたい。
そう思った、その時だった。
「爽子様! 上田爽子様!」
背後から慌てふためいた声が響いた。
革靴が石畳を叩く音が、こちらへ一直線に近付いてくる。
振り向くと、漆黒のローブを身にまとった高齢の男性が肩で息をしていた。
白い髭を整え、手には重そうな麻袋を抱えている。
走ってきた拍子に袋の中で金属がぶつかり合い、チャリン、と澄んだ音が鳴った。
「爽子様、お待ちくださいませ」
「あの……あなたは?」
男性は姿勢を正すと、胸に手を当てて深々と一礼した。
「辺境伯グリズリー様にお仕えしております。秘書官のガルドと申します」
「辺境伯? グリズリー?」
一瞬誰のことか分からず首を傾げる。
すると老人は少しだけ困ったように笑った。
「こちらの世界での、ご主人様のお名前でございます」
「ああ……熊ちゃん」
胸が少しだけ痛んだ。
熊ちゃん。
いや、この世界ではグリズリー辺境伯。
もう私の知っているラーメン屋の熊ちゃんではない。
老人はそんな私の表情を見て、小さく目を伏せた。
「旦那様は『これ以上、爽子様を縛る資格はない』と仰せでした」
「……そう」
「それでも、せめて旅立ちの支度だけは整えたいと」
そう言って差し出された麻袋は、ずっしりと重かった。
「これをお渡しするようにとのことです」
恐る恐る受け取る。
「重っ……」
思わず声が漏れる。
袋の口を少し開くと、中には見たこともない金貨がぎっしりと詰まっていた。
太陽の光を受けて、黄金色がきらきらと輝く。
一枚つまみ上げる。
表には月桂樹の葉。
裏には熊の横顔が精巧に刻まれていた。
「……なにこれ」
「我が国で流通しております金貨でございます。爽子様の当座の資金として、お納めください」
当座の資金。
向こうの世界で言えば慰謝料みたいなものだろうか。
本当は受け取りたくなんてない。
意地だけなら、突き返してしまいたかった。
でも。
知らない世界で無一文になるほど、私は子どもじゃない。
「……ありがとう。助かるわ」
素直に頭を下げると、老人は安心したように微笑んだ。
「それと、もう一つ」
そう言って、おもむろに私の足元へしゃがみ込む。
「えっ?」
老人は私の素足へ静かに手をかざした。
次の瞬間。
淡い翡翠色の光がふわりと広がった。
「えっ、なにこれ」
光は糸のように足首へ絡みつき、羽根で撫でられるような優しい感触がつま先から膝、腰、肩へと駆け抜けていく。
暖かい。
春の日差しに包まれているみたい。
「えっ、えっ、えっ」
思わず目を閉じる。
数秒後。
光が静かに消えた。
恐る恐る足元を見る。
「……わぁ」
赤茶色の革で仕立てられたモカシンが、私の両足を優しく包んでいた。
足に吸い付くようにぴったりで、まるで最初から履いていたみたいに馴染んでいる。
歩いてみる。
軽い。
石畳の冷たさももう感じない。
「魔法……?」
「旅人を守る加護がかけられております」
「加護?」
「長旅でも足を痛めにくく、多少の寒さ暑さも和らげてくれるでしょう」
「すごい……」
思わず何度も足踏みしてしまう。
異世界って、本当に魔法があるんだ。
そんな当たり前のことに、今さら感動している自分がおかしかった。
老人は満足そうに頷く。
「爽子様……どうぞ、お健やかに」
「ありがとうございます」
自然と深く頭を下げた。
この世界へ来てから、初めて向けられた優しさだった。
老人はローブを深く被ると、もう一度だけ丁寧に一礼する。
そして何も言わず、大きな扉の向こうへ静かに消えていった。
私はその後ろ姿をしばらく見送る。
手には金貨の入った袋。
足元には魔法の靴。
夫はいなくなった。
帰る場所もない。
それでも、不思議と絶望はしていなかった。
私は異世界の金貨と魔法の靴を手に入れた。
あとは鍋と包丁、それから少しの勇気があればいい。
この世界で、一番うまい食堂酒場を開くために。
さぁ、歩き出そう。
自分の力で。
私の行く手を槍で遮ることもなく、その後ろ姿を茫然と見送っている。
「熊ちゃんの妻」だった私は、今は何者でもない一人の女として城を出ていく。
誰も止めない。
止められないのか、それとも止める理由がないのか。
どちらにしても、もう振り返るつもりはなかった。
大理石の床に素足がひんやりと冷たい。
一歩踏み出すたび、冷たさが足裏から伝わってくる。
そういえば、ここへ来た時の私は部屋着のままだった。
靴なんて履いていない。
こんな格好で異世界を歩くなんて、少し前まで想像もしなかった。
私はこれからどこへ向かうのだろう。
宿はあるのだろうか。
言葉は通じるのだろうか。
お金は使えるのだろうか。
考えれば考えるほど、不安ばかりが胸の中で膨らんでいく。
でも。
今さら熊ちゃんのところへ戻るつもりはなかった。
重厚なマホガニーの大きな扉が、ギギギと鈍い音を立てて開く。
一筋の眩しい光に目を細めた。
外の空気が頬を撫でる。
少し冷たい。
でもどこか懐かしい匂いだった。
森の香り。
土の匂い。
遠くから流れてくる澄んだ川の気配。
まるで北海道の朝みたい。
そう思った、その時だった。
「爽子様! 上田爽子様!」
背後から慌てふためいた声が響いた。
革靴が石畳を叩く音が、こちらへ一直線に近付いてくる。
振り向くと、漆黒のローブを身にまとった高齢の男性が肩で息をしていた。
白い髭を整え、手には重そうな麻袋を抱えている。
走ってきた拍子に袋の中で金属がぶつかり合い、チャリン、と澄んだ音が鳴った。
「爽子様、お待ちくださいませ」
「あの……あなたは?」
男性は姿勢を正すと、胸に手を当てて深々と一礼した。
「辺境伯グリズリー様にお仕えしております。秘書官のガルドと申します」
「辺境伯? グリズリー?」
一瞬誰のことか分からず首を傾げる。
すると老人は少しだけ困ったように笑った。
「こちらの世界での、ご主人様のお名前でございます」
「ああ……熊ちゃん」
胸が少しだけ痛んだ。
熊ちゃん。
いや、この世界ではグリズリー辺境伯。
もう私の知っているラーメン屋の熊ちゃんではない。
老人はそんな私の表情を見て、小さく目を伏せた。
「旦那様は『これ以上、爽子様を縛る資格はない』と仰せでした」
「……そう」
「それでも、せめて旅立ちの支度だけは整えたいと」
そう言って差し出された麻袋は、ずっしりと重かった。
「これをお渡しするようにとのことです」
恐る恐る受け取る。
「重っ……」
思わず声が漏れる。
袋の口を少し開くと、中には見たこともない金貨がぎっしりと詰まっていた。
太陽の光を受けて、黄金色がきらきらと輝く。
一枚つまみ上げる。
表には月桂樹の葉。
裏には熊の横顔が精巧に刻まれていた。
「……なにこれ」
「我が国で流通しております金貨でございます。爽子様の当座の資金として、お納めください」
当座の資金。
向こうの世界で言えば慰謝料みたいなものだろうか。
本当は受け取りたくなんてない。
意地だけなら、突き返してしまいたかった。
でも。
知らない世界で無一文になるほど、私は子どもじゃない。
「……ありがとう。助かるわ」
素直に頭を下げると、老人は安心したように微笑んだ。
「それと、もう一つ」
そう言って、おもむろに私の足元へしゃがみ込む。
「えっ?」
老人は私の素足へ静かに手をかざした。
次の瞬間。
淡い翡翠色の光がふわりと広がった。
「えっ、なにこれ」
光は糸のように足首へ絡みつき、羽根で撫でられるような優しい感触がつま先から膝、腰、肩へと駆け抜けていく。
暖かい。
春の日差しに包まれているみたい。
「えっ、えっ、えっ」
思わず目を閉じる。
数秒後。
光が静かに消えた。
恐る恐る足元を見る。
「……わぁ」
赤茶色の革で仕立てられたモカシンが、私の両足を優しく包んでいた。
足に吸い付くようにぴったりで、まるで最初から履いていたみたいに馴染んでいる。
歩いてみる。
軽い。
石畳の冷たさももう感じない。
「魔法……?」
「旅人を守る加護がかけられております」
「加護?」
「長旅でも足を痛めにくく、多少の寒さ暑さも和らげてくれるでしょう」
「すごい……」
思わず何度も足踏みしてしまう。
異世界って、本当に魔法があるんだ。
そんな当たり前のことに、今さら感動している自分がおかしかった。
老人は満足そうに頷く。
「爽子様……どうぞ、お健やかに」
「ありがとうございます」
自然と深く頭を下げた。
この世界へ来てから、初めて向けられた優しさだった。
老人はローブを深く被ると、もう一度だけ丁寧に一礼する。
そして何も言わず、大きな扉の向こうへ静かに消えていった。
私はその後ろ姿をしばらく見送る。
手には金貨の入った袋。
足元には魔法の靴。
夫はいなくなった。
帰る場所もない。
それでも、不思議と絶望はしていなかった。
私は異世界の金貨と魔法の靴を手に入れた。
あとは鍋と包丁、それから少しの勇気があればいい。
この世界で、一番うまい食堂酒場を開くために。
さぁ、歩き出そう。
自分の力で。

