異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

「……パンがない?」

 思わず目をぱちぱちと瞬かせる。

 さっきまで皿の上で湯気を立てていた、焼きたてのチーズと胡桃のパン。

 二つ並べたはずなのに、一つしか残っていない。

「えっ?」

 私はもう一度テーブルを見た。

 やっぱり一つだ。

 見間違いじゃない。

「そんなはず……」

 テーブルの下を覗き込む。

 床板の隙間。

 椅子の脚の周り。

 どこにも落ちていない。

 椅子を動かす。

 ギギッと音を立てるだけで、パンは見つからない。

 今度はキッチンカウンターの下まで覗いてみる。

 鍋。

 木箱。

 薪。

 どこにもない。

「どういうこと?」

 頭の中が真っ白になる。

 確かにテーブルへ置いた。

 スープもよそって。

 それからスプーンを取りに行った。

 ほんの数歩。

 たった数秒だ。

 その間にパンが一つだけ消えるなんて。

「コケ?」

 チョボが首を傾げながら私を見上げている。

「チョボじゃないよね?」

「コッ」

 短く返事をする。

 鳥籠の中から一歩も出ていないのだから、犯人ではない。

 第一、あんな大きなパンを丸ごと食べられるとは思えなかった。

「うーん……」

 腕を組み、残されたパンをじっと見つめる。

 誰かが入ってきた?

 でも玄関の木戸は閉まっていた。

 窓も閉めたままだ。

 泥棒なら、お金を盗むはず。

 パンだけ盗んで帰る泥棒なんて聞いたことがない。

「妖精……とか?」

 ふと思い付く。

 この世界なら十分あり得そうだった。

 馬はしゃべるし。

 野菜も泣く。

 井戸まで悲鳴を上げる。

 パンを食べる妖精くらいいても不思議じゃない。

「……でもなぁ」

 納得できない。

 できないけれど。

 目の前からパンが消えてしまった以上、この状況を受け入れるしかなかった。

「いただきます」

 私は両手を合わせる。

 残ったパンを半分へ割る。

 ふわり。

 焼きたてのビール酵母の香りが立ち上った。

 とろりと溶けたチーズが糸を引く。

「あっ」

 慌てて口へ運ぶ。

 熱々のチーズが舌の上でとろける。

 胡桃の香ばしさが後から追い掛けてきた。

「美味しい……」

 自然と笑顔になる。

 続いて野菜スープを一口。

 玉ねぎの甘み。

 キャベツの優しい香り。

 昨日煮込んだ野菜くずとは思えないほど、まろやかな味だった。

「……あぁ、美味しい」

 ほっと肩の力が抜ける。

 やっぱり料理は人を幸せにする。

 そう思った、その時だった。

「上田――」

 ゾクリ。

 スプーンを持つ手が止まる。

 まただ。

 今度はすぐ近く。

 店の中で誰かが囁いたような距離だった。

 私は勢いよく顔を上げる。

 バッ。

 食堂を見回す。

 入口。

 階段。

 厨房。

 誰もいない。

 静まり返っている。

 息を殺して耳を澄ます。

 シーン……。

 聞こえるのは。

 ピチョン。

 タライへ落ちる水滴の音だけ。

 ランプの火も静かに揺れている。

 でも。

 確かに聞こえた。

「だ、誰……」

 喉が渇く。

「誰なの?」

 返事はない。

 私は思わず椅子から立ち上がった。

 胸の鼓動がどんどん速くなる。

 ドクン。

 ドクン。

 まるで心臓だけが暴れているみたいだった。

「落ち着いて……」

 そう自分へ言い聞かせる。

 でも体は言うことを聞かない。

 残っていたパンを慌てて口へ押し込む。

「んぐっ」

 熱い。

 でも味なんて分からない。

 急いでスープを流し込む。

 ゴクゴク。

 ようやく飲み込めた。

 そのまま皿を抱えてキッチンへ向かう。

 木桶へ水を張る。

 皿を洗う。

 ゴシゴシ。

 ゴシゴシ。

 いつもよりずっと手が速い。

 スプーンも洗う。

 木皿も洗う。

 まるで何かから逃げるように、夢中で手を動かした。

 背中がむずむずする。

 誰かに見られている。

 そんな気がして仕方がない。

「気のせい……」

 違う。

 気のせいじゃない。

 絶対に誰かいる。

 皿を拭き終えると、私は麻袋を掴んだ。

 財布。

 スマホ。

 ちゃんと入っている。

 肩へ掛ける。

 そして。

 バタン!

 勢いよく木戸を開け、外へ飛び出した。

「はぁっ……!」

 思い切り息を吸う。

 外の空気が肺へ流れ込んできた。

「あぁ、びっくりした」

 胸を押さえる。

 心臓はまだ早鐘を打っている。

 私は恐る恐る店を振り返った。

 窓ガラスの向こうは静かだ。

 誰の姿も見えない。

 それなのに。

「あの中に……いる」

 あのか細い声を出す何かが。

 私の知らない誰かが。

 まだヴェダー亭の中にいる気がした。

 ジリ……。

 ジリジリと後ずさる。

 足が勝手に店から離れていく。

「……まだ、アレが店の中にいるのよね」

 大きな椎木が風を受け、ざわりと枝葉を揺らした。

 朝だというのに木陰だけが妙に暗い。

 葉擦れの音が、誰かの笑い声にも、囁きにも聞こえる。

 店の窓は静かに私を見つめ返していた。

 まるで――中にいる何かが、私を待っているように。