異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

買ったばかりのワンピースへ袖を通す。

 麻の生地はさらりとしていて肌触りがいい。

 鏡の前へ立ち、くるりと一回転してみる。

 風をはらんだスカートが、朝顔の花が開くようにふわりと広がった。

 大きく開いた襟ぐりには、小さなピコフリル。

 裾には紺色の糸で丁寧に縫われたアイヌ紋様の刺繍。

 そこへお気に入りの青いエプロンを結ぶ。

 鏡の中には、昨日までとはまるで違う自分が映っていた。

「……やっぱり可愛い」

 思わず頬が緩む。

 もうパーカー姿で浮いている旅人じゃない。

 この町で食堂酒場を営む女主人。

 そんな気持ちに少しだけ近付けた気がした。

 裾を摘まんで、もう一度くるりと回る。

「うん、これにして良かった」

 レオンが取り戻してくれたお金がなければ、この服も買えなかった。

 市場で別れる時の笑顔がふと思い浮かぶ。

『僕の名前はレオン。いつか行くよ』

「本当に来てくれるかな」

 小さく笑ってしまう。

 会ったばかりの人なのに、不思議と安心できる笑顔だった。

 私は鏡へ軽く頭を下げる。

「よし」

 気持ちを切り替える。

 今日の晩ご飯を作ろう。

 市場で買った食材を並べる。

 キャベツ。

 ナス。

 角うさぎの肉。

 それから岩塩と胡椒。

 豪華ではない。

 でも十分だ。

「いただきます」

 私は野菜へ手を合わせる。

 包丁を持つ。

「シクシクシクシク……」

 キャベツが小さく泣き始めた。

「ごめんね、ごめんね、いただきます」

 一口大へ切っていく。

 トントントン。

 包丁の音が静かな店内へ心地よく響いた。

 次はナス。

「キャーーー!」

 元気な悲鳴が上がる。

「そんなに大げさじゃないでしょう」

 思わず笑ってしまう。

「いただきます」

 ざく切りにして皿へ移す。

 切れ端は捨てない。

 寸胴鍋へ入れる。

 水をたっぷり張り、火へ掛けた。

 コトコト煮込めば立派な野菜スープになる。

 ギルが教えてくれたわけじゃない。

 熊ちゃんと二人でラーメン屋をやっていた頃、何度も繰り返した仕込みだった。

「もったいないもんね」

 誰に言うでもなく呟く。

 この世界では野菜くずを平気で捨ててしまう。

 でも、それでは美味しい出汁は生まれない。

 鍋へ蓋をして火加減を弱める。

 次は角うさぎだ。

 包丁を入れると柔らかな肉がすっと切れていく。

 程よい脂身が付いていて、美味しそうだった。

 フライパンを火へ掛ける。

 ジュワッ。

 肉を一切れずつ丁寧に並べる。

 たちまち脂が溶け始め、香ばしい音が響いた。

 パチパチ。

 パチパチ。

 小さな花火みたいな音。

 菜箸でひっくり返す。

「あちっ!」

 飛び跳ねた脂が手の甲へ当たる。

 思わず手を引っ込める。

「もう、元気なんだから」

 苦笑しながら焼き色を確かめる。

 両面がきつね色になったところで皿へ移した。

 フライパンには旨味たっぷりの脂が残っている。

 そこへナスを入れる。

 ジュワッと音を立てて脂を吸っていく。

 続いてキャベツ。

 木べらで大きく混ぜる。

 岩塩をひとつまみ。

 胡椒をぱらり。

 最後に角うさぎを戻す。

 全体をさっと混ぜ合わせる。

 それだけなのに、キッチンいっぱいへ食欲をそそる香りが広がった。

「できた」

 木皿へ盛り付ける。

 茶色い肉。

 紫色のナス。

 鮮やかな緑のキャベツ。

 彩りも悪くない。

 私はスープの様子を見に行く。

 寸胴鍋から湯気が立ち上っている。

 吹きこぼれないよう火を少し弱める。

 野菜の優しい香りが漂ってきた。

「いい感じ」

 席へ戻り、ナイフとフォークを手に取る。

「いただきます」

 角うさぎへナイフを入れる。

 ほろり。

 驚くほど柔らかい。

 一口食べる。

 脂身は舌の上でとろけ、赤身はしっとりしている。

「ん……!」

 思わず目を閉じる。

 噛むほどに旨味が広がる。

 続いてナス。

 じゅわっと脂が口いっぱいへ溢れた。

 キャベツのシャキシャキした食感が心地よく、後味をさっぱりさせてくれる。

「ん〜、美味しい♪」

 思わず声が大きくなる。

 誰もいない店なのに、つい笑顔になってしまった。

「これならお客さんにも喜んでもらえそう」

 そんなことを考えた、その時だった。

「上田――」

 ゾクリ。

 背筋へ冷たいものが走る。

 まただ。

 また誰かが私を呼んでいる。

 今度ははっきり聞こえた。

 私は椅子を勢いよく引き、立ち上がる。

「誰?」

 店の中を見回す。

 厨房。

 入口。

 二階へ続く階段。

 誰もいない。

 静まり返っている。

 それでも確かに聞こえた。

「上田――」

 風ではない。

 木の軋む音でもない。

 誰かの声だった。

 ゾワゾワと怖気が背中を這い上がる。

「コケッ?」

 チョボが首を傾げ、不思議そうに私を見る。

「誰!? 誰かいるの!?」

 返事はない。

 窓の外を見る。

 いつの間にか空は黒い雲に覆われていた。

 ポツリ。

 ポツリ。

 雨粒が木枠の窓ガラスを叩き始める。

 やがて雨脚は強くなり、バラバラと音を立て始めた。

 大きな椎の木が夜風を受け、ざわざわと枝葉を揺らす。

 まるで誰かが窓の外で立っているように、黒い影がガラスへ映った。

 ランプの火もゆらゆらと揺れる。

 昼間まで温かく感じていた店が、急によその家のように思えた。

 私は思わず胸元で両手を握り締める。

 静まり返ったヴェダー亭には、雨音と椎の葉擦れだけが響き続けていた。