もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

 青年の背中は、あっという間に雑踏の中へ紛れていった。

 露店と露店の間を縫うように駆け抜け、次の瞬間にはもう姿が見えない。

「……」

 追い掛けたい気持ちはある。

 でも足が震えて動かなかった。

 ようやく我に返り、噴水広場のベンチへ腰を下ろす。

 膝がじんじん痛む。

 転んだ拍子に擦りむいたらしく、オーバーオールの膝が白く擦り切れた。

「痛……」

 両手を見る。

 麻袋を掴もうとして地面へついた掌は真っ赤になり、細かな砂が張り付いている。

 ひりひりと痛い。

 布でそっと払ってみるけれど、傷口へ触れるたび顔がしかめ面になる。

 周囲では相変わらず市場の賑わいが続いていた。

 大道芸人へ拍手を送る人。

 焼きたての串肉を頬張る子ども。

 笑いながら買い物をする夫婦。

 赤い風船が空へ舞い上がり、妖精たちが追い掛けて飛び回っている。

 さっきまで楽しく見えていた景色が、急によそよそしく感じた。

 まるで私一人だけ、この賑やかな世界から取り残されてしまったみたいだった。

「どうしよう……」

 胸が締め付けられる。

 家へ帰れば、まだ金貨は少し残っている。

 店を開くことだって、きっとできる。

 でも。

 あの麻袋の中には、お金以上に大切なものが入っていた。

 パールピンクのスマホ。

 もう充電は切れている。

 電波だって届かない。

 それでも、どうしても捨てられなかった。

 熊ちゃんと撮った写真。

 ラーメンヴェダ亭の店先。

 二人で笑いながら写った何気ない日常。

 画面の向こうには、もう戻れない思い出が詰まっている。

 だから、失いたくなかった。

 私はさっき青年が走っていった路地をじっと見つめる。

「任せろ」

 そう言った青年。

 どこから現れて、どこへ走っていったのだろう。

 本当に追い掛けてくれているのだろうか。

 もしかしたら、そのまま逃げてしまった泥棒を見失ったかもしれない。

 そんな考えが頭をよぎる。

「そうだ……警察」

 ふと、その言葉が浮かんだ。

 この世界にも警察のような人たちはいるのだろうか。

 衛兵なら見掛けたことがある。

 相談してみよう。

 私はゆっくり立ち上がった。

 その時だった。

「はぁ……はぁ……」

 荒い息遣いが聞こえる。

 振り向くと、一人の青年がこちらへ歩いてきていた。

 額には汗。

 頬には土。

 ズボンの膝も泥で汚れている。

 かなり走り回ったのだろう。

 転んだのかもしれない。

 息を整えながら、それでも笑顔を浮かべていた。

 その右手には――。

 私の麻袋。

「あっ……!」

 思わず声が漏れる。

 青年は私の前まで来ると、息を整えながら袋を差し出した。

「……はい」

 少し照れたように笑う。

「君のだろう?」

 その笑顔は、まるで夏のひまわりみたいに明るかった。

 柔らかな金色の髪が風に揺れる。

 長い前髪の隙間から覗く碧い瞳は澄み切った空の色をしていた。

 整った鼻筋。

 優しく細められた目元。

 思わず見惚れてしまうほど端正な顔立ちだった。

 私は麻袋を取り返してくれたことも忘れ、その顔をぼんやり見つめてしまう。

「どうぞ」

 青年は私が受け取りやすいように石畳へ片膝をつき、目線を合わせてくれる。

 その仕草まで優しい。

 顔が熱くなるのが自分でも分かった。

「……あ」

 ようやく我に返る。

「あ、ありがとう」

 慌てて麻袋を受け取る。

 その瞬間。

 指先がほんの少し触れた。

 たったそれだけなのに、胸がどきりと鳴る。

「中を確認してみて」

 青年は穏やかな声で言った。

「もし何か無くなっていたら困るから」

「はい」

 私は麻袋を開く。

 最初に小さな革袋。

 金貨。

 銀貨。

 銅貨。

 ちゃんと入っている。

 その下には、パールピンクのスマホ。

「……あった」

 思わず胸へ抱き寄せる。

 傷一つ付いていない。

 思わず涙が込み上げてきた。

「ありがとうございます」

 青年へ深く頭を下げる。

「ちゃんと全部入っています」

「良かった」

 青年は心から安心したように微笑んだ。

 その笑顔を見ていると、こちらまでほっとする。

 逆光を受けた金色の髪がきらきらと輝いていた。

「あの、お礼を……」

 すると青年は軽く首を振る。

「ありがとう」

 優しく笑う。

「気持ちだけいただいておくよ」

「……で、でも」

「困っている人を助けただけだから」

 さらりと言ってしまう。

 まるで特別なことではないという顔だった。

 青年は服についた泥をぱんぱんと払い落とす。

 そして踵を返した。

 何事もなかったように、また人混みの中へ戻ろうとする。

「ま、待って!」

 私は思わず大きな声を出していた。

 青年が立ち止まり、振り返る。

「あの!」

 胸が高鳴る。

「名前!」

 せめて名前だけは知りたい。

「私は上田爽子と言います!」

 青年は静かに耳を傾けてくれる。

「大きな椎木の家で食堂酒場を開きます!」

 自然と笑顔になっていた。

「店の名前はヴェダー亭です!」

 青年の口元がゆっくり弧を描く。

「僕の名前はレオン」

 爽やかな笑顔だった。

「いつか行くよ」

 そう言って軽く手を振ると、人混みの中へ歩いていく。

 今度は振り返らなかった。

 私は麻袋を胸へ抱えたまま、その後ろ姿が見えなくなるまで、いつまでも見送っていた。