もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

使い古したベッドのマットレスは思っていた以上に硬かった。

 昨日は疲れ切っていたせいで気にならなかったけれど、一晩寝ただけで体中が悲鳴を上げている。

「……イタタ」

 ゆっくり起き上がる。

 腰がギシギシと軋み、肩まで張っている。

 思わず両手を上へ伸ばして大きく伸びをした。

 骨がポキポキと気持ちよく鳴る。

「これは早く買い替えなきゃ」

 ベッドをぽんぽんと叩く。

 長年頑張ってくれたマットレスなのだろう。

 ところどころ潰れ、藁が片寄っている。

 私は窓を開ける。

 朝のひんやりした風が部屋へ流れ込み、椎の葉がさらさらと揺れた。

 鳥のさえずりも聞こえてくる。

 気持ちのいい朝だった。

 身支度をしようと鏡の前へ立つ。

 映った私は、フード付きのパーカーにオーバーオール姿。

 日本では当たり前の格好だった。

 でも、この町では明らかに浮いている。

 袖口は少し擦り切れ、膝も白っぽく色褪せていた。

 何度も熊ちゃんと一緒に洗濯し、着続けた服。

 思い出がたくさん詰まっている。

 だから捨てる気にはなれなかった。

「でも……」

 鏡の中の自分を見つめる。

「そろそろ着替えも必要ね」

 昨日市場で見掛けた麻のワンピースを思い出す。

 襟ぐりが少し大きく開いていて、風通しが良さそうだった。

 丈も膝くらいで動きやすそう。

 あの青いエプロンを合わせたら、きっと可愛い。

 頭の中で合わせてみる。

「うん、似合いそう」

 思わず一人で頷いた。

「今日は市場に行ってみよう」

 そう決めると、不思議と気持ちまで軽くなる。

 私は木桶を持って外へ出た。

 朝靄が町を薄く包み、椎の木の葉には朝露が光っている。

 井戸へ近づき、ロープを下ろす。

 ポチャン。

 昨日と同じように水音が響いた。

「……ヒィぃ」

 井戸の底から、小さな悲鳴も聞こえる。

「おはよう」

 思わず挨拶してみる。

 返事はない。

 でも、少しだけ「ヒィ……」が小さく聞こえた気がした。

 相変わらず臆病な精霊らしい。

 冷たい水を汲み上げる。

 朝の井戸水は昨日よりさらに冷たい。

 手を浸けただけで指先が真っ赤になった。

「つめたっ」

 両手ですくい、勢いよく顔を洗う。

「……ぷはっ!」

 一気に目が覚めた。

 眠気も吹き飛び、背筋までしゃんと伸びる。

 頬へ触れる朝風が心地いい。

 その時だった。

「コッコッ!」

 店の中からチョボの声が聞こえる。

「はいはい、お待たせ」

 私は笑いながら急いで戻る。

 チョボは餌箱の前で体を上下させ、忙しなく足踏みしていた。

 待ちきれないらしい。

「はい、どうぞ」

 餌を入れると、チョボは嬉しそうに羽を少し広げ、ぴょこぴょこと踊り始めた。

 その姿があまりにも可愛くて、思わず笑ってしまう。

「美味しい?」

「コッ」

 短く返事が返ってくる。

 本当に返事をしているみたいだ。

 その様子を眺めていたら。

 グゥゥゥ……。

 今度は私のお腹が大きく鳴いた。

「あ……」

 チョボがこちらを見る。

「ちょっとごめんね」

 鳥籠の隅を見ると、生みたての卵が一つ。

 白く艶やかに光っている。

 そっと手に取る。

「温かい」

 まだほかほかしていた。

「ありがとう、チョボ」

 チョボは得意そうに胸を張る。

 私は裏庭へ回り、昨日拾っておいた椎の小枝を窯へ入れた。

 マッチを擦る。

 シュッ。

 小さな炎が小枝へ燃え移る。

 パチパチ。

 乾いた音が静かな朝へ響く。

 火が安定したところで、少し太い枝。

 さらに薪を一本入れる。

 モクモクと煙が上がり、思わず咳き込んだ。

「ゴホッ……」

 目尻へ涙が滲む。

「これでいいかな?」

 炎は赤々と燃えている。

 どうやら成功だ。

 ギルが鏡みたいに磨いてくれたフライパンを火へ掛ける。

 オリーブオイルを一滴。

 黄金色の雫がゆっくり広がり、熱せられる。

 パチパチ。

 小さく踊る音が心地いい。

 卵を手に取る。

「いただきます」

 コン。

 コンコン。

 殻を割る。

 ジュワッ。

 白身が勢いよく広がった。

 岩塩をナイフで少し削る。

 ひとつまみ。

 コップの水をほんの少しだけ入れ、蓋を閉じる。

 待つ時間も料理のうちだ。

 蓋を少し開けて様子を見る。

 白身はふっくら。

 黄身には薄い膜が張り始めている。

「よしよし!」

 ちょうどいい。

 火を止める。

 白身の端は香ばしくカリッと焼け、黄身はぷるんと半熟だった。

 皿へ丁寧に盛り付ける。

 たった一つの目玉焼き。

 でも、ちゃんと美味しそうに見える。

「今日はこれだけで我慢」

 フォークで白身を少しずつ食べ進める。

 黄身だけは最後まで残す。

 そして一気に口へ運ぶ。

 とろり。

 濃厚な甘みが口いっぱいへ広がった。

「おいしい……」

 自然と笑顔になる。

 卵一つでも幸せになれる。

 でも。

「調味料も欲しいなぁ」

 窓の外を眺める。

「野菜も……お肉も……魚も欲しい」

 頭の中では、次々と料理が浮かんでくる。

 オムレツ。

 野菜炒め。

 煮物。

 スープ。

 この世界には冷蔵庫がない。

 代わりに石で作られた保冷箱があり、一週間に一度、永久凍土を売る行商人が町を回ってくるとギルが教えてくれた。

 その氷で肉や魚を保存するらしい。

「でも……」

 地図を思い出す。

「こんな内陸じゃ、魚はあまり期待できないかも......でも......川魚はいるかな?」

 それなら野菜を活かそう。

 牛も豚もいる。

 十勝なら美味しい料理はいくらでも作れる。

 食べ終えた皿を洗い、布で丁寧に拭く。

 麻袋へ金貨を五枚入れた。

 チャリン。

 思ったより重い。

「これだけあれば足りるかな」

 青いエプロンを見つめる。

 まずはベッドのマットレスとワンピース。

 それから食材。

 調味料。

 もし見つかれば、屋根に塗るペンキも欲しい。

 やることは山ほどある。

 でも不思議と楽しかった。

 私は麻袋を肩へ掛け、チョボへ声を掛ける。

「行ってくるね」

「コッ!」

 元気な返事を背中で聞きながら、私は朝日に照らされる十勝の市場へ向かって歩き出した。