もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

チョボを鳥籠からそっと出して、餌と水を用意する。

 床へ降ろすと、チョボは「コッコッ」と機嫌良さそうに首を前後へ振りながら、夢中で餌を啄み始めた。

 時折こちらを見上げては、小さく鳴く。

「いっぱい食べるんだよ」

 そう声を掛けると、返事をするように「コケッ」と短く鳴いた。

 なんだか少しだけ心が和らぐ。

 見知らぬ町で、一人きりだと思っていたけれど。

 今はチョボがいる。

 それだけで、この家は少しだけ賑やかだった。

「美味しそう……」

 餌をついばむ姿を眺めていたら、私のお腹まで正直に鳴いた。

 ぐぅ。

 思わず苦笑いする。

「私もご飯にしようかな」

 夕暮れの光はすっかり薄れ、店の中はぼんやりと暗くなっていた。

 私はキッチンへ向かい、ランプへ火を灯す。

 パチッ。

 小さな炎が揺れ、やがて優しい橙色の光が部屋いっぱいへ広がっていく。

 一人と一羽だけの静かな空間。

 けれど、その灯りは不思議と温かかった。

 木箱を開け、果物ナイフを取り出す。

 ギルが餞別に持たせてくれたラグビーボールくらいの大きさの木の実。

 青かった実は黄色く熟れ、見た目はマンゴーによく似ている。

「いただきます」

 皮へナイフを入れると、柔らかな果肉から甘い果汁がじんわり滲み出した。

 指先を伝って雫が落ちそうになる。

 私は思わず指を舐める。

「……ちょっと……甘すぎ」

 思わず独り言が漏れる。

 静かな店内では、その声さえ壁へ吸い込まれていくようだった。

 やっぱり、この異世界北海道の料理は味が濃い。

 砂糖も果物も、何もかも極端だ。

 美味しくないわけじゃない。

 でも繊細さがない。

 盛り付けも大皿へ豪快に山盛り。

 色合いなんて誰も気にしていない。

 だからこそ。

 私の店では違う料理を出そう。

 見た瞬間に「美味しそう」と思える一皿。

 湯気も。

 彩りも。

 器との組み合わせも。

 目でも楽しめて、舌でも幸せになれる料理。

 そんな食堂酒場にしたい。

 私は木箱の山から雑巾とバケツを取り出した。

「まずは掃除ね」

 店の入口脇には古い井戸がある。

 ロープで括り付けられた木のバケツを井戸へ投げ入れる。

 ポチャン。

 水音が響いた。

 その直後だった。

「ひやぁぁぁぁ……」

 井戸の底から誰かの悲鳴みたいな声が聞こえてきた。

「……な、なに?」

 思わず一歩後ずさる。

 暗い井戸の中を覗き込む勇気はない。

 試しに小石を一つ落としてみる。

 コトン。

 ポチャン。

「ひやあ……」

 また聞こえた。

「やっぱり何かいる!」

 私は井戸から少し距離を取る。

 でも、この異世界北海道では馬もしゃべるし、野菜も悲鳴を上げる。

 井戸がしゃべっても、もう驚かない方がおかしいのかもしれない。

「そういえば、さっきのフルーツは無口だったな」

 果物を思い出して少し笑う。

 もしかすると、「いただきます」と聞く前に、食べられる覚悟を決めていたのだろうか。

 そんなことを考えている自分が少し可笑しかった。

「よいしょ……!」

 気を取り直し、ロープを引っ張る。

 思っていた以上に重い。

 濡れた麻縄が手のひらへ食い込み、ざらざらした繊維が皮膚を擦る。

 両足を踏ん張り、腰を落として力いっぱい引き上げる。

「うぅ……重い……」

 腕が震える。

 ようやく井戸の縁まで持ち上がった。

「……まさか、変なもの入ってこないよ……ね」

 恐る恐る中を覗く。

 澄んだ水。

 浮かんでいるのは小さな木の葉が一枚だけ。

 それ以外は何もなかった。

「よかったぁ……」

 胸を撫で下ろす。

 手を浸してみる。

「つめたっ!」

 思わず声が出た。

 山の湧き水みたいに冷たい。

 この水なら料理もきっと美味しく作れる。

 私は雑巾を濡らし、ぎゅっと絞った。

 その時だった。

「上田――」

 どこからともなく、また声が聞こえた。

 ビクリと肩が跳ねる。

 店の前に立つ大きな椎の木が夜風を受け、ざわざわと枝葉を揺らしている。

 黒い影が地面へ伸び、不気味に揺れた。

 まただ。

 旅の途中でも聞こえた声。

 誰かが確かに私の名前を呼んでいる。

「……誰?」

 返事をしてみる。

 でも返ってくるのは風の音だけ。

 まさか。

 熊ちゃんの城から兵士が追い掛けてきた?

 いや、そんなはずはない。

 辺りを見回しても人影はどこにもない。

 なのに胸だけがざわざわする。

 私は慌てて店の中へ駆け込み、勢いよく木戸を閉めた。

 バタン!

 鍵も掛ける。

「なんなのよ、あの声……」

 思わず口に出す。

「怖いんですけど……」

 静かな店内では、自分の声だけがやけに大きく聞こえた。

「気のせい、気のせい」

 そう言い聞かせながら深呼吸する。

 そして掃除を始めた。

 テーブル。

 椅子。

 窓枠。

 ベッドの木枠。

 黒く積もった煤を一拭きするたび、本来の木目が少しずつ姿を現していく。

 まるで心の中に積もった悲しみまで、一緒に拭き取っているみたいだった。

 熊ちゃんとの別れ。

 グリズリー城での日々。

 涙を流した夜。

 全部、少しずつ過去になっていく。

 掃除を終える頃には、部屋の空気まで軽くなっていた。

 私は椅子へ腰を下ろす。

 包み紙を開き、大切に運んできたワイングラスを取り出した。

 オホーツク領の市場で買った木苺のワインを静かに注ぐ。

 深い紅色の液体がランプの灯りを受けて宝石のように輝いた。

「新しいお店に」

 グラスをそっと掲げる。

「乾杯」

 一口飲む。

 木苺の甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。

 明日は木箱を開けよう。

 皿を並べて。

 鍋を磨いて。

 包丁を研いで。

 この店を、私だけの食堂酒場にしていこう。

 ランプの火は静かに揺れ、長い一日の終わりを優しく照らしていた。