もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

ガタン。

 蹄の音がゆっくりと止まり、木の車輪がギシギシと軋んだ。

 それまで流れていた景色も、雲も、時間さえも止まったような気がする。

 御者は手綱を軽く引くと荷台から飛び降り、大きく背伸びをした。

「着いたぞ」

 チョボが籠の中で「コッコッ」と小さく鳴き、首を左右へ振って辺りを見回している。

 私も幌をめくって外を覗いた。

「……ここが、十勝の町」

 目の前に広がる町並みは、オホーツク領とどこかよく似ていた。

 石畳の道。

 石造りの家々。

 煙突から立ち上る白い煙。

 広場の中央では噴水が涼しげな音を立て、獣人の子どもたちが服のまま水遊びをして笑い声を響かせている。

 露店も並んでいた。

 串焼きの肉を焼く香ばしい匂い。

 焼きたてのパンの香り。

 甘い果物の匂い。

 市場は活気にあふれている。

 でも。

「やっぱり……」

 私は小さく鼻を鳴らした。

 どこにも出汁の香りがしない。

 昆布も鰹節も、野菜を煮込んだ優しい香りも漂ってこない。

 この町にも、私の料理を待っている人がきっといる。

 そんな気がした。

 御者が幌をめくりながら、人差し指で一軒の建物を示す。

「お嬢ちゃん、着いたぜ」

 日に焼けた笑顔で笑う。

「ここがあんたの新しい家だ」

「は、はい!」

 慌てて荷台を飛び降りる。

 目の前には二階建ての建物が建っていた。

 青い屋根の上へ覆いかぶさるように、大きな椎の木が枝を広げている。

 風が吹くたび木漏れ日が揺れ、葉擦れの音が心地よく耳に届いた。

「わぁ……大きい」

 思わず見上げる。

 外壁はところどころペンキが剥げ、木枠の窓も少し色褪せている。

 それでも不思議と嫌な印象はなかった。

「十分」

 私は頷いた。

 店を開くまでにペンキを塗り直そう。

 窓も磨こう。

 看板も新しく作りたい。

 少しずつ、自分の店にしていけばいい。

 入口の脇にはテラコッタの植木鉢が一つ置かれていた。

「これかな?」

 持ち上げた瞬間。

「ぎゃーっ!」

 ダンゴムシたちが悲鳴を上げながら一斉に這い出してくる。

「ご、ごめんね!」

 思わず謝ってしまう。

 異世界では虫までしゃべるのかと思ったけれど、よく見ると悲鳴を上げていたのは一匹だけで、残りは慌てて逃げ回っているだけだった。

 植木鉢の下には、小さな真鍮の鍵が隠されていた。

 泥を払う。

 陽の光を浴びた鍵には、可愛らしいマーガレットの花が丁寧に彫られていた。

「今日からよろしくね」

 誰にともなく呟き、鍵穴へ差し込む。

 右へゆっくり回す。

 ガチャ。

 鈍い手応えとともに錠が外れた。

 真鍮のドアノブは太陽に熱せられ、ほんのり温かい。

 私は深呼吸をひとつして、ゆっくりと扉を押し開けた。

 ギィィ……。

 長い間閉ざされていた店内から、埃と少し湿ったカビの匂いが流れ出してくる。

「窓を開けてもいいですか?」

「おう。その間に荷物を下ろしておく」

「ありがとうございます」

 私は店の中へ入った。

 床板は少し軋むものの、思ったよりしっかりしている。

 窓という窓を開け放つ。

 涼しい風が吹き抜け、重かった空気を少しずつ押し流していった。

 二階へ続く木の階段を上る。

 ギシ。

 ギシ。

 一段ずつ確かめながら歩く。

 そこにはベッドが一つ置かれた小さな部屋があった。

 蜘蛛の巣を払い、木戸を開く。

 眩しい陽射しが一気に差し込み、光の中で埃が金色に舞い上がった。

「きれい……」

 思わず見惚れる。

 ベッドは少し古いけれど、マットレスとシーツを替えれば十分使えそうだった。

 窓から見えるのは十勝の町並み。

 遠くには畑が広がり、その向こうを川が流れている。

 朝になれば気持ちのいい景色が見られそうだ。

 私は手すりについた煤を払いながら一階へ降りる。

 手をパンパンと叩き、腰へ手を当てて食堂を見回した。

 風が通り抜け、さっきまでのカビ臭さはかなり薄れている。

「いいお店になりそう」

 木製のテーブルが三つ。

 椅子は十二脚。

 決して広くはない。

 でも、一人で切り盛りするにはちょうどいい広さだった。

 ここで料理を作り、お客さんが「美味しい」と笑う。

 そんな光景が自然と頭へ浮かんでくる。

 キッチンへ足を運ぶ。

 流し台は思ったより新しく、水道まで付いていた。

 蛇口をひねる。

 ゴボッ。

 勢いよく飛び出したのは茶褐色の水だった。

「わっ!」

 慌てて飛び退く。

 しばらく流していると、少しずつ透明になっていく。

「ちゃんと使えそうね」

 ほっと胸を撫で下ろした、その時だった。

「おーい!」

 外から御者の声が聞こえる。

「はーい!」

 蛇口を閉め、外へ出る。

 そこには木箱が山のように積まれていた。

「これはどこへ運べばいいんだい?」

「……とりあえず、お店の中へお願いします」

「よし、任せろ」

 私は一番軽そうな木箱を抱えた。

 中では、お玉や木べらがコトコトと可愛らしい音を立てている。

 御者は皿や寸胴鍋の入った重たい木箱を軽々と持ち上げ、慎重に店内へ運び込んでくれた。

 何度も何度も往復する。

 額から汗が流れ、首筋を伝う。

 御者は布で汗を拭いながら笑った。

「いい汗だ」

「はい」

 気付けば空は茜色から群青色へ変わり、一番星が静かに輝いていた。

 最後の木箱を運び終えると、御者は大きく息を吐いた。

「爽子、頑張るんだぞ」

 すると馬が私の肩へ優しく頬を擦り寄せてくる。

「きっと繁盛するさ」

 その温もりに思わず笑顔になる。

「ありがとう」

「お嬢ちゃん、元気でな」

「ありがとう、これ......お礼です」

 彼の手に金貨を二枚手渡した。御者は目を丸くして「いいのかい、こんなに」と驚きながらも笑顔で受け取り、腰に結んだ麻袋に入れた。

 チャリン。

 お別れの音だ。

 チャリン。

 寂しさがふと、胸をよぎる。

「またいつか、うまい飯を食べに来るよ」

 御者は手を振った。

「待ってます!」

 幌馬車はガタゴトと音を立てながら、札幌に向かって出発した。

 私は見えなくなるまで何度も手を振った。

 やがて町は静けさを取り戻す。

 私は振り返り、新しい店を見上げた。

 七泊八日の旅は終わった。

 今日からここが、私の家。

 そして――。

「ここが異世界北海道で、一番うまい食堂酒場が始まる場所」