もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

「そら! しっかり持てよ!」

 御者の大きな声が響く。

 私はギルから譲り受けた寸胴鍋を両手で抱え、幌馬車の荷台へ慎重に積み込んだ。

 続いてフライパン。

 ボウル。

 木べら。

 包丁。

 お玉。

 紙で丁寧に包んだ皿。

 木箱へ一つひとつ収めていく。

 山と積まれた木箱には、食器だけじゃない。

 夢も、希望も、これから始まる私の人生も詰まっていた。

 積み終える頃には荷台がずっしりと沈み込み、木の板がミシミシと音を立てる。

「おぉ、結構な荷物だな」

 御者が苦笑した。

「全部、お店を始めるための道具なんです」

「そりゃ大事に運ばねぇとな」

 そう言って荷縄を締め直してくれる。

 私は深く頭を下げた。

「ギルさん、ありがとう」

 ギルは照れくさそうに笑いながら、ゴツゴツと節くれだった手を差し出した。

 何十年も鍋を振り続けてきた料理人の手。

 私はその手をぎゅっと握る。

 温かい。

 優しくて、大きな手だった。

「体に気をつけるんだぞ」

「うん」

「無理するな」

「うん」

「困ったら帰ってこい」

 その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなる。

 思わず目頭がじんわりと滲んだ。

「また遊びに来いよ!」

 ギルはいつもの笑顔に戻り、大きく手を振る。

「トーカチーに着いたら連絡しろよ!」

「はい!」

 ドワーフたちも酒樽を抱えたまま外へ飛び出してきた。

「爽子ー!」

「うまい飯、忘れるなよ!」

「今度は俺たちがトーカチーへ行くからな!」

 妖精たちは花びらを撒きながら歌い始め、獣人たちは尻尾をぶんぶん振っている。

 チョボは「コケコッコー!」と胸を張り、まるで出発の合図をしているみたいだった。

 私は幌馬車へ乗り込む。

 木箱の隣へ腰を下ろし、青いエプロンを膝の上へ置いた。

 もう、後戻りはできない。

「出発するぞー!」

 御者が手綱を鳴らす。

 馬が力強く歩き出した。

 ゴトン。

 ゴトゴト。

 荷台がゆっくり揺れ始める。

 私は身を乗り出し、何度も何度も手を振った。

 ギルたちの姿が少しずつ小さくなる。

 宿屋も。

 市場も。

 噴水広場も。

 やがて町全体が小さく霞んでいった。

 その向こうには辺境伯の城が見える。

 高い塔の上で、月桂樹の旗が風になびいていた。

「さよなら……熊ちゃん」

 小さく呟く。

 もう二度と会うことはないかもしれない。

 元夫。

 その言葉にも、ようやく慣れ始めていた。

 胸は少し痛んだ。

 でも涙は出なかった。

 幌馬車は白樺の林へ入る。

 木漏れ日が荷台へ揺れ、風が葉をさらさらと鳴らした。

 林を抜けると、一気に視界が開ける。

「わぁ……」

 思わず声が漏れた。

 どこまでも続く原野。

 見渡す限りの緑。

 ビルも住宅街もない。

 果てしない大地が、地平線の彼方まで続いている。

 遠くでは牛によく似た四本角の動物が群れを作り、空には巨大な鳥がゆったりと輪を描いていた。

 木の車輪は砂埃を巻き上げながら、ギシギシと音を立てる。

 その音さえ、新しい人生への足音に聞こえた。

「お嬢ちゃん、少し休もう」

 御者より先に、馬が口を開いた。

「喉が渇いた」

「そうだな。俺も腹が減った」

 御者が笑う。

 街道脇の雑木林で馬車を止め、小休止を取ることになった。

 私は荷台から飛び降りる。

「いたた……」

 クッションのない荷台は思っていた以上に硬い。

 腰を伸ばすと骨がぽきぽき鳴った。

「長旅は慣れだよ」

 御者が笑う。

「早く慣れなきゃ」

 沢のせせらぎが心地よい。

 浅瀬では難しい顔をしたサワガニがハサミを振り回し、「近寄るな」と言わんばかりに威嚇していた。

 少し離れた場所ではドワーフたちが木槌を振り下ろし、鉄鉱石を砕いている。

 カーン。

 カーン。

 澄んだ金属音が森へ響いていた。

「お嬢ちゃん」

 馬が水を飲みながら尋ねる。

「トーカチーで店を開くって聞いたが、どんな店にするんだい?」

 私は少しだけ空を見上げた。

 頭に浮かぶのは、あちらの世界のラーメンヴェダ亭だった。

 暖簾をくぐる常連さん。

「いつもの」

 その一言で笑い合えた毎日。

 初めて来た若いカップルが、湯気の立つラーメンをスマホで何枚も撮っていた。

 熊ちゃんは「麺が伸びちまうだろ」と苦笑いしながらも、どこか誇らしそうだった。

 料理は、お腹を満たすだけじゃない。

 笑顔も作れる。

 幸せな思い出も作れる。

 私はそんな店を、もう一度作りたい。

「お客さんが幸せな気持ちになれるお店にしたいと思っています」

 自然と笑みがこぼれる。

「新しい料理を考えて、美味しいって笑ってもらえるような……そんな食堂酒場です」

 馬は嬉しそうに鼻を鳴らした。

「いい夢だ」

 御者も頷く。

「じゃあ俺も、いつか食べに行くよ」

「ぜひ!」

 その時だった。

 背後のシダが、ガサガサッと大きく揺れた。

 風じゃない。

 何かがいる。

「上田――」

 誰かが私の名前を呼んだ気がした。

「えっ?」

 振り返る。

 でも、そこには揺れるシダしかなかった。

 森は静まり返っている。

 鳥の声だけが聞こえていた。

「……気のせい?」

 この世界で私の名前を知っている人なんて、いるはずがない。

 それでも胸の奥に、小さなざわめきだけが残っていた。