もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

「まるでホームセンターみたいだわ」

 思わずそんな言葉が口をついて出た。

 ギルの宿屋の物置には、使い古した寸胴鍋やフライパン、フライ返し、ボウル、木べら、包丁まで所狭しと並んでいる。

 壁には大小さまざまなお玉や泡立て器が整然と掛けられ、棚には木皿や陶器の皿が積み上げられていた。

 中古品ばかりだというのに、どれも驚くほど綺麗だ。

 ギルの生真面目な性格なのだろう。

 鍋の底は煤一つ残さず磨かれ、フライパンは顔が映りそうなくらい光っている。

「これだけ手入れされていたら、まだ何年でも使えそう」

 私がそう言うと、ギルは少し照れくさそうに頭を掻いた。

「道具は相棒だからね。手入れを怠ると、美味い料理は作れないさ」

 その言葉に思わず頷く。

 熊ちゃんも同じことを言っていた。

 包丁を研ぐ音が聞こえるたび、「商売道具は大事にしろ」と笑っていた姿を思い出す。

「爽子、本当に行ってしまうのかい?」

 ギルは棚から丈夫そうな鍋を選びながら、心配そうに私を見つめた。

「ええ」

 私は麻袋を広げ、新聞紙の代わりに柔らかな紙で皿を一枚ずつ丁寧に包んでいく。

 一枚。

 もう一枚。

 皿が重なるたび、独り立ちする決意も少しずつ固まっていく。

 本当は怖い。

 知らない土地で一人きり。

 頼れる人もいない。

 それでも、熊ちゃんの城下町で暮らし続けることだけはできなかった。

 いつか町で偶然会ってしまうかもしれない。

 幸せそうな二人の姿を見るたび、きっと私は立ち止まってしまう。

 だから前へ進む。

「店を開くなら、トーカチーに居抜きの店があるよ」

 ギルは古びた地図を広げ、指で町を示した。

「知り合いが店を畳んでね。厨房もそのまま残っている」

「十勝……」

 地図を覗き込む。

「食材には困らなさそうね」

「ああ。畑も牧場も多い。牛も豚も野菜も美味い土地だ」

 その言葉だけで胸が躍る。

 料理人にとって、食材の豊かな土地ほど魅力的な場所はない。

「そこにします」

 私が即答すると、ギルは満足そうに頷いた。

「よし」

 さっそく机に向かい、便箋へ手紙を書き始める。

 慣れた手つきで封をし、伝書鳩の脚へ結び付けた。

「頼んだぞ」

 窓を開ける。

 伝書鳩は大きく羽ばたき、澄み切った青空へ吸い込まれるように飛び去っていった。

 あっという間に小さな白い点になり、やがて見えなくなる。

「返事は今週末には来るだろう」

 ギルは笑った。

「それまで俺たちに、うまい料理を作ってくれ」

「もちろん」

 私も笑顔で頷く。

 するとギルは店の奥へ引っ込み、大きな寸胴鍋を抱えて戻ってきた。

「これは俺からの餞別だ」

 少しくたびれてはいるけれど、丁寧に磨かれた立派な鍋だった。

「トーカチーの店で使ってくれ」

 私は両手で受け取る。

 ずっしりとした重みが伝わってきた。

「ありがとう。大事に使うね」

「鍋も喜ぶさ」

 二人で顔を見合わせ、小さく笑った。

 その足で私は市場へ向かう。

 昼間の市場は相変わらず活気に満ちていた。

 色とりどりの旗が風にはためき、道化師が五つのボールを軽々と操るたび、大きな拍手が沸き起こる。

 露店からは焼き立てのパンや果物の香りが漂い、妖精たちが楽しそうに空を飛び回っていた。

「エプロンをください。その青いエプロン」

 私が指差したのは、澄み渡る空のような青色のエプロンだった。

「はいよ」

 顔なじみになった市場のおばさんは、にこにこと包みながら言う。

「旅に出るんだって?」

「うん」

「だったら、これも持って行きな」

 包みの上へ、青い三角巾をそっと重ねてくれた。

「サービスだよ」

「えっ、いいの?」

「また元気な顔を見せてくれりゃ、それで十分さ」

 胸がじんわり温かくなる。

「ありがとう」

「爽子ちゃん、また遊びにおいでね」

「はい!」

 卵をカゴいっぱいに買って宿へ戻る頃には、夕日が町を茜色に染めていた。

 ギルの宿屋は今夜も満席だった。

「今日は何を作るんだ?」

 ドワーフたちがそわそわしている。

 私はチョボが産んだ卵と、市場で買って来た卵をボウルへ割り入れた。

 牛乳を少し。

 塩をひとつまみ。

 砂糖をほんの少し。

 箸で優しく混ぜ合わせる。

 カチャカチャと鳴る音に合わせ、ドワーフは首をぐるぐる回し、獣人たちは尻尾をぱたぱたと揺らしていた。

 妖精はその音を真似しながら、天井をくるくる飛び回る。

「ギル、ラードはある?」

「もちろん」

 ラードを、熱したフライパンへほんの少し落とす。

 ジュワッ。

 香ばしい湯気が立ち上る。

 獣人たちは一斉に鼻をひくひくさせた。

「肉だ!」

「いい匂い!」

 みんながキッチンカウンターへ身を乗り出す。

 余分なラードを紙で拭き取り、溶き卵を流し入れる。

 ジュワッと優しい音が響く。

「何を作っているんだい?」

「オムレツよ」

 箸で大きく円を描くように混ぜ、半熟になったところでフライパンを軽く叩く。

 トントン。

 トントン。

 形が少しずつ整っていく。

 皿の上には、艶やかな黄色いオムレツがちょこんと微笑んでいた。

 誰もがごくりと唾を飲む。

 ギルが最初の一口を運ぶ。

 宿屋はしんと静まり返り、咀嚼する音だけが響いた。

 やがてギルは目を見開き、大きく息を吐く。

「これはうまい!」

 思わず立ち上がった。

「卵がこんなに柔らかくなるなんて……爽子、お前さんは本当に料理の魔法使いだ!」

 その声を合図に、ドワーフたちが小皿を持ってずらりと並ぶ。

「俺にも!」

「おかわり!」

「まだあるか!」

 あっという間に皿は空になる。

 足りなくなった卵を買おうと、獣人は市場へ全力で駆け出していった。

 笑い声が絶えない宿屋。

 みんなの笑顔を見ていると、胸の奥がじんわり熱くなる。

 旅立ちの日は、もうすぐそこまで来ている。

 少し寂しい。

 でも、それ以上に楽しみだった。

 きっと十勝には、まだ出会ったことのない人たちが待っている。

 そして、新しい食堂酒場も。

 私は新しい青いエプロンをそっと抱きしめ、小さく微笑んだ。