もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

「紹介しよう。こちらが俺の妻だ」

 私は甲冑を身につけた、夫の隣に立つ見知らぬ女性を見て、ゆっくりと瞬きをした。

「……え?」

 私は妻じゃ、なかったの?

 その日、私は夫を諦めて、異世界北海道で一番うまい食堂酒場を開くことにした。

 ◇◇◇

 四十五日前まで、私には夫がいた。

 熊一くまいち。みんなからは「熊ちゃん」と呼ばれていた。

 彼は三十五歳の誕生日を目前に、忽然と姿を消した。

 ダンプカーが彼の乗った自転車を跳ね飛ばした。

 警察から連絡を受けて現場へ向かうと、道路には原型を留めないほどひしゃげた自転車だけが転がっていた。

 でも、肝心の熊ちゃんだけが、どこにもいなかった。

「……もう、熊ちゃん……どこ行っちゃったのよ」

 警察は事故として処理した。

 でも遺体は見つからない。

 生きているのか、死んでいるのか、それすら誰にも分からなかった。

 二人で切り盛りしていた小さなラーメン屋、ヴェダ亭。

 毎朝一緒に仕込んでいたスープは寸胴の中で冷え切り、暖簾を掛けることもなく、店は静まり返っていた。

 厨房に立つたび、癖で二人分の麺を茹でそうになる。

「熊ちゃん、味見お願い」

 そう口にしてから、返事が返ってこないことに気付く。

 そのたび胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 カウンターの一番端には、熊ちゃん専用の湯飲みが置かれたままだ。

 割れないようにと毎日洗っては、また同じ場所へ戻す。

 「帰ってきたら温かいお茶を飲ませよう」

 そんなことを考えてしまう自分が、少しだけ情けなかった。

 四十五日。

 毎日探した。

 警察にも行った。

 病院にも行った。

 SNSにも書いた。

 常連さんたちも一緒になって探してくれた。

 「熊ちゃんならひょっこり帰ってくるよ」

 そう笑って励ましてくれる人もいた。

 でも何も見つからなかった。

 店のシャッターを下ろすたび、希望も少しずつ閉じ込められていくようだった。

 もう諦めなきゃ。

 そう思った日に限って、人は奇跡なんてものを見るらしい。

 写真立てに飾られた熊ちゃんとの笑顔をぼんやり眺めていると、パールピンクのスマホが震えた。

「え……?」

 画面に表示された送り主を見て、思わず息が止まる。

 熊ちゃん。

「嘘……」

 怒りより先に涙が出そうになった。

 生きていたの。

 だったらどうして。

 どうして今まで連絡をくれなかったの。

 震える指でメールを開く。

 そこにはQRコードとURL。

「なにこれ……」

 どう見ても怪しい。

 詐欺メールそのものだ。

 削除ボタンに指を乗せる。

 でも、止まった。

 送り主は熊ちゃんになっている。

 ありえない。

 でも、ありえないことが起きている。

 メールには、たった一文だけ書かれていた。

『ここで待ってる』

 私は大きく息を吸った。

「熊ちゃん……」

 信じる。

 そう決めて、リンクを押した。

 次の瞬間、画面いっぱいに白い光があふれた。

「え……?」

 スマホを取り落としそうになる。

 足元がぐらりと揺れ、床が消えたような浮遊感に包まれる。

 視界は真っ白になり、耳鳴りだけが響いた。

「きゃあっ!」

 身体が吸い込まれる。

 手を伸ばしても何も掴めない。

 気づけば、私は光の中へ落ちていた。

 ◇◇◇

「熊ちゃん……?」

 思わず名前を呼んだ。

 目の前に広がっていたのは、見知らぬ大広間だった。

 天井は驚くほど高く、磨き上げられた木の柱が何本も並ぶ。

 壁には巨大な熊の木彫り。

 エゾシカの角。

 アイヌ文様を思わせる装飾。

 窓の向こうには針葉樹の森と、雪をいただいた山並みが見えた。

 北海道。

 そんな言葉が自然と頭に浮かぶ。

 でも知っている北海道とは少し違う。

 空気は澄みきり、木の香りが濃い。

 遠くからは鳥とも獣ともつかない鳴き声が聞こえ、窓の外を巨大な翼を持つ生き物がゆっくり横切っていった。

 私を見下ろす人々は獣人のような耳を持ち、色鮮やかな髪を揺らしている。

 まるで北海道によく似た、どこか別の世界。

 そして――。

 髭を蓄えた年老いた熊ちゃんが、甲冑を身につけて豪奢な椅子に座っていた。

 隣には幸せそうに熊ちゃんの腕へ寄り添う女性。

「……熊ちゃん?」

 声が震える。

「そんな、どうしておじいちゃんになってるの?」

 熊ちゃんはゆっくり立ち上がり、黒いビロードのマントを翻した。

 一歩。

 また一歩。

 赤い絨毯を踏みしめながら私の前まで歩いてくる。

 昔と同じ歩き方。

 でも、その背中は少し丸くなっていた。

 白くなった髪。

 深く刻まれた皺。

 四十五日前に別れたはずの夫とは、とても思えない。

 そして。

「紹介しよう。こちらが俺の妻だ」

 隣の女性の肩を抱いた。

 その瞬間、頭の中が真っ白になった。

「爽子さわこ! どこへ行く!」

 肩を掴まれる。

 振り返ると、熊ちゃんの目には涙が浮かんでいた。

「どこって知らないわよ! ここどこなの!」

「ここは北海道だ!」

「北海道?」

「……異世界の、な」

「それで、その女は誰よ!」

「……俺の妻だ」

 熊ちゃんは唇を噛む。

「……待った」

「え?」

「何十年も、お前を待った」

 静まり返る大広間。

「ここと向こうじゃ時間の流れが違う」

「だから熊ちゃんはおじいちゃんなの?」

「ああ」

「じゃあ、その人は?」

「……この世界で結婚した」

「だから私は何なのよ!」

 熊ちゃんは目を伏せた。

「……お前も俺の妻だ」

「は?」

「向こうの世界では」

「じゃあ、この人は?」

「こっちの世界の妻だ」

「最低」

 熊ちゃんは皺だらけの手を見つめ、小さく笑った。

「お前は若いままだな」

 その笑顔だけは昔と変わらなかった。

 だから余計につらい。

 四十五日しか経っていない私。

 何十年も生きた熊ちゃん。

 もう私たちは同じ時間を生きていない。

 でも。

「だからって、別の人と結婚していい理由にはならない」

 熊ちゃんは何も言えなかった。

 隣の女性は私の顔を凝視していた。

 きっと彼女は悪くない。

 悪くないからこそ、怒りのぶつけどころがなかった。

 私はその手をそっと振りほどく。

「爽子!」

 もう振り返らない。

 窓の外を見る。

 雄大な大地。

 深い森。

 青く澄んだ空。

 見たこともないのに、どこか懐かしい北海道。

 けれど、この屋敷は私のいる場所ではない。

「私には帰る場所がない」

「……爽子」

「もういい」

 熊ちゃんは何かを言いかけた。

 でも、その言葉を最後まで聞く気はなかった。

 謝罪も、言い訳も、慰めも。

 今の私には何ひとつ届かない。

「私は私の人生を生きる」

 そうして私は、大広間をあとにした。

 熊ちゃんのためじゃない。

 誰かを見返すためでもない。

 私が笑って生きるために。

 大きな扉を押し開けると、冷たい風が頬を撫でた。

 その風は涙を乾かし、新しい匂いを運んでくる。

 森の香り。

 薪の煙。

 そして、どこかの家から漂ってくる焼きたてのパンの匂い。

 思わずお腹が鳴った。

 こんな時でも、お腹は空くんだ。

 私は少しだけ苦笑する。

 涙を拭い、静かに言った。

「お腹を満たして、心まで温かくなる料理を作ろう」

 熊ちゃんを待ち続けた四十五日は終わった。

 これからは、自分のために生きる。

 ラーメンだけじゃない。

 北海道の恵みも、この世界の食材も、全部使って誰かを笑顔にする。

 そうすれば、きっと私もまた笑える。

 この時私は、異世界北海道で一番うまい食堂酒場を作ることを決めた。