見積書には、書けるものと書けないものがある。
クロスの張り替え。
CFの施工。
塗装。
防水。
数字にできるものなら、いくらでも書ける。
でも――。
あの日、彼女に言えなかった
「好きでした」の一行だけは、最後まで見積書に書けなかった。
* * *
八月になると、決まってラジオから高校野球が流れてくる。
野球は、そんなに詳しくない。
それでも、県を背負って戦う球児たちを見ていると、毎年のように胸が熱くなる。
汗だくになって白球を追いかける姿に、どうしてなのか、心を動かされる。
気づけば、三十歳近く年下の彼らに、毎年泣かされていた。
これも、もう二十年以上続いている、夏のルーティンだ。
その日も高校野球を聞きながら、初めて会うお客様との打ち合わせへ向かっていた。
約束は午前十時。
三十分ほど早く近くのコンビニへ着き、缶コーヒーを一本買った。
今日のお客様は、えみちゃんからの紹介だった。
弟の元彼女。
もう二十年以上前に別れているのに、今でも俺は花を買いに、その店へ行く。
「ゆうくん」
「えみちゃん」
そんな呼び方も、昔のままだ。
弟と付き合っていた頃、お店の塗装工事をしたのがきっかけだった。
別れたあとも関係は途切れず、今では仕事の相談をくれたり、花のことを教えてくれたりする、大切な存在になっていた。
気遣いができて、よく笑う。
会話のテンポも心地いい。
弟には悪いが、
「この子が義理の妹だったらな」
そう思ったことは、一度や二度じゃない。
そんなえみちゃんが紹介してくれたお客様だった。
詳しい話は聞かなかった。
「いい人だから」
その一言だけで、十分だった。
缶コーヒーを飲み干すと同時に、電子タバコが小さく震えた。
午前九時五十分。
そろそろ向かうか。
事前にGoogleマップで場所は確認してある。
自宅の駐車場に停めて大丈夫とも聞いていた。
『森下』と書かれた表札。
オレンジ色の屋根。
庭先のレンガ積み。
目印は、それだけだった。
閑静な住宅街をゆっくり走っていると、その家はすぐに分かった。
――純粋に、俺の好きな家だった。
この仕事をしていると、家を見るだけで、住んでいる人の好みが少しだけ見えてしまう。
外観。
植栽。
玄関まわり。
置かれている家具や照明。
「きっと、こんな人なんだろうな」
そんなことを勝手に想像してしまうのは、職業病なのかもしれない。
庭先には、大小さまざまな観葉植物が並んでいる。
その横には、黒いアイアンの脚をつけたアンティーク調の木製台。
台の上にはサボテンや季節の花が、まるでひな壇のように美しく並んでいた。
決して派手ではない。
それなのに、目を奪われた。
オレンジ色の屋根。
やわらかなオフホワイトの外壁。
その優しい色合いが庭の緑や花を引き立て、この家全体を一つの作品のように見せていた。
「いい家だな……」
思わず独り言が漏れる。
まだ会ったこともない家の主人に、不思議と興味が湧いていた。
バックミラーで身だしなみを確認する。
襟元を整え、前髪を指先で軽く流す。
「よし」
誰に言うでもなく、小さくつぶやいた。
営業という仕事は、不思議なものだ。
何百件とお客様の家へ伺っているのに、初めてインターホンを押す瞬間だけは、いまだに少し緊張する。
深呼吸をひとつ。
車のドアを閉める音が、静かな住宅街に乾いた音を響かせた。
庭先をもう一度、ゆっくり眺める。
風に揺れる花たち。
丁寧に手入れされた植栽。
置かれている物すべてに、この家の主人の人柄が滲んでいるようだった。
営業バッグの中には、メジャー、レーザー、図面用紙、サンプル帳。
いつもの仕事道具。
それなのに、その日のバッグは、少しだけ重く感じた。
玄関横の表札には『森下』。
インターホンの横には、小さなリースが飾られている。
季節の花を使った手作りだろうか。
えみちゃんの紹介らしい家だ。
そんなことを思うと、自然と頬が緩んだ。
腕時計を見る。
午前十時、ちょうど。
昔、親方によく言われた言葉を思い出す。
「五分前は早すぎる。五分遅れは論外。約束の時間に鳴らすインターホンが一番気持ちいい」
今でも、その教えだけは守り続けている。
人差し指をゆっくり伸ばす。
小さく息を吸い込み、白いボタンを押した。
「ピンポーン」
家の奥から、控えめなチャイムが聞こえる。
ほんの数秒。
その数秒が、不思議なくらい長く感じた。
足音。
フローリングを歩く、軽やかな音。
少しずつ近づいてくる。
俺は無意識に背筋を伸ばした。
営業スマイルを作ろうとして――やめた。
今日くらいは、自然な笑顔でいい。
足音が玄関の向こうで止まる。
ドアノブが、ゆっくりと回った。
カチャ。
ガチャ――。
クロスの張り替え。
CFの施工。
塗装。
防水。
数字にできるものなら、いくらでも書ける。
でも――。
あの日、彼女に言えなかった
「好きでした」の一行だけは、最後まで見積書に書けなかった。
* * *
八月になると、決まってラジオから高校野球が流れてくる。
野球は、そんなに詳しくない。
それでも、県を背負って戦う球児たちを見ていると、毎年のように胸が熱くなる。
汗だくになって白球を追いかける姿に、どうしてなのか、心を動かされる。
気づけば、三十歳近く年下の彼らに、毎年泣かされていた。
これも、もう二十年以上続いている、夏のルーティンだ。
その日も高校野球を聞きながら、初めて会うお客様との打ち合わせへ向かっていた。
約束は午前十時。
三十分ほど早く近くのコンビニへ着き、缶コーヒーを一本買った。
今日のお客様は、えみちゃんからの紹介だった。
弟の元彼女。
もう二十年以上前に別れているのに、今でも俺は花を買いに、その店へ行く。
「ゆうくん」
「えみちゃん」
そんな呼び方も、昔のままだ。
弟と付き合っていた頃、お店の塗装工事をしたのがきっかけだった。
別れたあとも関係は途切れず、今では仕事の相談をくれたり、花のことを教えてくれたりする、大切な存在になっていた。
気遣いができて、よく笑う。
会話のテンポも心地いい。
弟には悪いが、
「この子が義理の妹だったらな」
そう思ったことは、一度や二度じゃない。
そんなえみちゃんが紹介してくれたお客様だった。
詳しい話は聞かなかった。
「いい人だから」
その一言だけで、十分だった。
缶コーヒーを飲み干すと同時に、電子タバコが小さく震えた。
午前九時五十分。
そろそろ向かうか。
事前にGoogleマップで場所は確認してある。
自宅の駐車場に停めて大丈夫とも聞いていた。
『森下』と書かれた表札。
オレンジ色の屋根。
庭先のレンガ積み。
目印は、それだけだった。
閑静な住宅街をゆっくり走っていると、その家はすぐに分かった。
――純粋に、俺の好きな家だった。
この仕事をしていると、家を見るだけで、住んでいる人の好みが少しだけ見えてしまう。
外観。
植栽。
玄関まわり。
置かれている家具や照明。
「きっと、こんな人なんだろうな」
そんなことを勝手に想像してしまうのは、職業病なのかもしれない。
庭先には、大小さまざまな観葉植物が並んでいる。
その横には、黒いアイアンの脚をつけたアンティーク調の木製台。
台の上にはサボテンや季節の花が、まるでひな壇のように美しく並んでいた。
決して派手ではない。
それなのに、目を奪われた。
オレンジ色の屋根。
やわらかなオフホワイトの外壁。
その優しい色合いが庭の緑や花を引き立て、この家全体を一つの作品のように見せていた。
「いい家だな……」
思わず独り言が漏れる。
まだ会ったこともない家の主人に、不思議と興味が湧いていた。
バックミラーで身だしなみを確認する。
襟元を整え、前髪を指先で軽く流す。
「よし」
誰に言うでもなく、小さくつぶやいた。
営業という仕事は、不思議なものだ。
何百件とお客様の家へ伺っているのに、初めてインターホンを押す瞬間だけは、いまだに少し緊張する。
深呼吸をひとつ。
車のドアを閉める音が、静かな住宅街に乾いた音を響かせた。
庭先をもう一度、ゆっくり眺める。
風に揺れる花たち。
丁寧に手入れされた植栽。
置かれている物すべてに、この家の主人の人柄が滲んでいるようだった。
営業バッグの中には、メジャー、レーザー、図面用紙、サンプル帳。
いつもの仕事道具。
それなのに、その日のバッグは、少しだけ重く感じた。
玄関横の表札には『森下』。
インターホンの横には、小さなリースが飾られている。
季節の花を使った手作りだろうか。
えみちゃんの紹介らしい家だ。
そんなことを思うと、自然と頬が緩んだ。
腕時計を見る。
午前十時、ちょうど。
昔、親方によく言われた言葉を思い出す。
「五分前は早すぎる。五分遅れは論外。約束の時間に鳴らすインターホンが一番気持ちいい」
今でも、その教えだけは守り続けている。
人差し指をゆっくり伸ばす。
小さく息を吸い込み、白いボタンを押した。
「ピンポーン」
家の奥から、控えめなチャイムが聞こえる。
ほんの数秒。
その数秒が、不思議なくらい長く感じた。
足音。
フローリングを歩く、軽やかな音。
少しずつ近づいてくる。
俺は無意識に背筋を伸ばした。
営業スマイルを作ろうとして――やめた。
今日くらいは、自然な笑顔でいい。
足音が玄関の向こうで止まる。
ドアノブが、ゆっくりと回った。
カチャ。
ガチャ――。
