さよなら、ブラック

『みちるの痛みを、俺にもわけてほしい』

歩のこの言葉は、わたしにとって思いもよらないものだった。
過去の闇は、自分の力でしか解決できないと思ってた。
自分の力で乗り越えなければいけないと思ってた。
わたしの痛みは、分かち合うことができるものなんだろうか。

『嫌なら、話さなくていいよ。無理はしなくていいから』

わたしにそう言ってくれた、歩の表情が焼きついて離れない。
とても悲しそうで、寂しそうだった。
歩を信用していないわけじゃない。
だけど、「男性」を感じるのが、やっぱり怖い。
この気持ちがどれだけ歩を傷つけているかわかっているのに、どうすることもできない自分が歯がゆい。

そんなことを考えながら、流れていく景色を眺めていた。
わたしたちは、海沿いの国道を走っていた。
窓を開けると、潮の香りがする。
『みちると行きたいところがあるんだ』
歩のその一言で、わたしは今、彼の運転する車の助手席に座っている。

レンタカーを借りて、旅行に行くことになった。
歩は運転免許を持ってはいたけれど、たまにしか運転したことがないと言っていたので、わたしは少し不安になった。

出発の朝、歩はレンタカーに初心者マークを3つも貼って現れた。
「これだけ貼っておいたら、周りも気をつけてくれるだろ」
そう言って、にんまり笑っていた。
やたら貼ってあると、逆にふざけていると周りに思われるんじゃないの?
初心者マークだらけのこの車に一緒に乗りたくない。
と、一瞬本気でそう思った。
「安全運転で行きますからね。大切な人を隣りに乗せるんだから」
そう言ってわたしにウインクし、白い歯をきらりと見せた。
車から降りたくなった。

だけど、心配していた歩の運転技術は、いい意味で裏切ってくれた。
本当に、ほっとした。

そのおかげで、音楽を聴く余裕もできた。
ラジオから流れるのは、アップテンポの流行りの曲。
窓の外に目をやると、水平線が見える。
白々とした波も立っていない。
今日の海は穏やかだ。

運転する歩をちらりと見た。
ハンドルを握る、華奢だけど筋肉質な腕。
尖った顎。
サングラス。
風になびく黒髪。
かっこいい。
スパンコールがいっぱいついているシャツさえ見なければ。

「ねえ、歩」
「なに?」
「前から思ってたんだけど……」
わたしが少し言いにくそうにしていると、
「なになに」
と急かしてくる。
「歩の服ってさ、個性的だよね」
思いきってそう言うと、
「そう?俺、人と同じ格好したくないんだよね」
あっけらかんと言った。
やっぱり気に入ってるんだ、このファッション。
歩はご機嫌なのか、ラジオから流れてきた曲に合わせて突然、
「YO!」
と叫んだ。
ため息が出た。

歩に連れて行かれたのは水族館だった。
「いっしょに来たかったところって、ここ?」
歩の顔をのぞき込む。
「ここもそうだけど。メインは、まぁだ」
そう言ってにんまり笑った。
「さ、行こ」
嬉しそうにわたしの手を取って、歩き出す。

大きな水槽を優雅に泳ぐ魚の群れ。
暗闇にひっそりと姿を隠しているグロテスクな深海魚。
華やかにジャンプするイルカ。
どれもわたしをわくわくさせてくれる。
だけど、隣りで目をきらきらさせながら、楽しそうに水槽をのぞいている歩を見ているのが、一番おもしろかった。

ホテルに着く頃には日が傾いていた。
小高い丘の上に建つその小さなホテルの部屋からは、海が一望できた。
「すごい」
わたしは荷物を置いて、ベランダへ出た。

目の前に広がる水平線。
ぽっかりと浮かんでいる夕日。
オレンジ色に染まった海がきらめいていた。
「きれい」
「本当だね」
わたしの隣に、歩がそっと寄りそった。

時折、心地よい潮風が吹く。
少しずつ、太陽が海に沈んでいく。
地球が動いていることを実感する。
「なんだか、切なくなるね」
夕日を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「それはきっと、みちるがきれいな目を持っているからだよ」

歩の顔をちらりと見た。
夕日に照らされたその顔は、とても大人びて見えた。
胸が熱くなる。
夢幻的な光景に包まれて、透明ななにかがじんわりと胸に染みわたった。

『みちるの痛みを、俺にもわけてほしい』

ねえ、歩。
あなたを、信じたい。
あなたを、傷つけたくない。
わたしは、前に進みたい。
だから。
あなたが差し出してくれたその手を、つかんでもいいですか。

わたしは夕日を見つめながら、ベランダの手すりをぎゅっと握った。
それに気づいた歩は、わたしを後ろからふわりと包んでくれた。
背中に歩の鼓動を感じる。
それはまるで、母親のお腹にいる胎児のような感覚だった。

「……わたしは、コンプレックスのかたまりだった」

独り言のように、わたしはぽつりと呟いた。

「……高2の夏、中学時代の友だちに彼を紹介してもらったの。わたしは自分に自信のない子だったから、彼がわたしのことを気に入ってくれたことが信じられなくて……だけど、とても嬉しかったの」

「うん」

「だけど……付きあっていくうちに、体を求められるようになった。わたしはまだそんな気にはなれなくて、ずっと拒み続けていたの。……だけど、拒み続けていたら……嫌われるんじゃないかって思って。わたし、自分に自信がなかったから……この人を失ったら、この先わたしのことを好きになってくれる男の人なんて、現れないんじゃないかって思って……。だから……本当は嫌だったけど、体を許してしまったの。だけど……」

そこまで話すと、また、あの日の記憶が押し寄せてきた。
手すりを握る手に力が入る。
「大丈夫。俺はここにいる」
歩が耳元で優しく囁いた。
胸にナイフが刺さったまま鼓動を続ける心臓の痛みを、少しでもやわらげるために、わたしは大きく息を吐き出した。
「……彼の行為はとても身勝手で。……とても……つらかっ……」
言い終わらないうちに、歩は抱きしめる腕に力を入れた。

わたしの頬に、静かに涙が伝う。
「……ありがとう。教えてくれて、ありがとう」
そう言った歩の声は、少し上ずっていた。
歩?
泣いているの?
振り返ると、歩の目は真っ赤になっていた。

どうして。
どうしてあなたは、そんなに優しいの?
どうして真っ黒なわたしのために、そんなにきれいな涙が流せるの?
そっと歩の頬に触れると、彼はやわらかい笑みを浮かべた。
その表情を見て、わたしの体の芯が熱をおびた。

「好きよ」
溢れた思いが、口からこぼれた。
「俺もだよ」
歩はわたしの肩を抱いて、頭にキスをした。
「大好きだから」
「俺もだよ」

どうしよう。
体から溢れてくるこの気持ちは、なに?
どれだけ好きと伝えても、伝えきれない感じ。
むしろ、言葉にすると思いが軽くなってしまいそう。
だけど、伝えずにはいられない。
好きで好きでたまらない。
こんな気持ちはじめて。
苦しい。
「歩…」
わたしが顔を上げると、歩は穏やかに微笑んだ。

「おいで」

歩はわたしをひょいと抱き上げ、ダブルベッドの上にふわっと乗せた。

上からわたしを見つめる、穏やかなまなざし。
胸がはち切れそうだった。
そっと手を伸ばし、歩の顔を包む。
わたしは、あなたが……

「大好き」

歩のその言葉に、胸が熱くなった。
降り注ぐ、深いキス。
絡み合う指。

歩の吐息に溺れたい。
あなたが愛しい。

「ひとつになりたい……」

歩の首に手を回して、かすれた声で囁いた。
「嬉しい」
歩は微かに笑みを浮かべた。

その温もりに、体がふわりと浮き上がりそうになる。

切なげな彼の目が、胸を焦がす。
覆い被さる長いまつげが、麗しい。

こみ上げてくる悦び。
これが、愛されるということ。
愛するということ。

いつの間にか、涙が溢れていた。
「愛してるの……」
わたしは、歩の首にしがみついた。

歩がわたしを後ろから抱きしめてくれた。
包まれているおろしたてのシーツが、心地いい。
背中に歩の胸板を感じる。
耳に吐息を感じる。
幸せの余韻。

「嬉しかった」
耳元で囁いて、わたしの耳にそっと口づけた。
「わたしも」
歩の腕にそっと手を乗せた。

歩が初めての人だったら、良かったのに。
あんな思いも知らずに済んだのに。
ずっと、そう思ってた。

だけど。
あの哀しみがあったから、歩の深い愛情に気づけた。
愛しあうって、こんなに心が満たされるんだ。

「ねえ、みちる」
「なに?」
歩の鼓動が聞こえる。
「俺の声、どう思う?」
「……優しい」
そして、とろけそうなくらい甘い。
「俺の手は?」
「……大きくて、あたたかい」
そして、安心できる。
「俺って、どんな奴?」
「……優しい人」
そして、穏やかな海のような人。
「俺のこと、どう思う?」
その問いに、わたしは歩の腕に顔をうずめた。
「大好き」
そっと呟くと、歩はわたしを抱きしめる腕にぎゅっと力を入れた。
「俺も」
そう言って、わたしの耳たぶにキスをした。

「みちるは、いい子だね」
耳元で囁く歩の声がくすぐったい。
「みちるは俺のこと、ちゃんとここで見ていてくれる」
そう言って、歩はわたしの胸にそっと手をあてた。
とくんとくんと、鼓動が波打つ。
歩の手に、鼓動が伝わる。
それは、歩のおかげなんだよ。
わたしは、歩の手に自分の手をそっと重ねた。

わたしが幸せの余韻に浸っていると、歩は不敵な笑みを浮かべながら、わたしを振り向かせた。
なに?なんなの?
わたしが眉をひそめていると。
「だから、俺、どんな服着ていてもいいでしょ?」
なんてことを言うので、わたしは思わず吹き出してしまった。
それを見て、歩も愉快そうに笑った。

すっかり月も高くなった頃。
「そろそろ行こうか」
歩は懐中電灯を持って立ち上がった。
「どこに?」
すると、歩は懐中電灯を顔の下から照らし、
「き~も~だ~め~し~」
と、低い声を出した。
「え……」
ドン引きしたわたしを見て、
「うそうそ。いいからついて来て」
と、わたしの手を引いた。

ホテルを出て、暗い遊歩道を歩いていく。
その遊歩道は、海岸に繋がっているようで、次第に波の音が大きくなっていった。

ゆっくりゆっくり遊歩道を下っていく。
すると突然、唇にやわらかいものを感じた。
「誰も見てないから」
歩が耳元で囁く。
頬が赤くなるのがわかった。
わたしがうつむいていると、顎を持ち上げてもう一度キスをする。
今度は熱のこもった深いキス。
こんなところで、恥ずかしい。
唇を離した歩は、くすりと笑った。
「かわいい」
まだ、わたしの唇には熱が残っていた。

しばらく歩いて、ようやく砂浜に降り立った。
そして、目の前に広がったのは。
きらめく青だった。
「これは……」
息を呑んだ。
闇の中に浮かび上がる神秘の色。
波に漂って、ゆらりゆらりと揺れている。
「海ほたるだよ」
「海ほたる」
目の前に広がる幻想的な世界に、心が震えた。
「一度見てみたいと思ってたんだ」
そう言って、歩はわたしの手をぎゅっと握った。
「綺麗……」
目が離せない。
こんな綺麗な色、見たことがない。
どんな宝石よりも美しい。
わたしの中のすべてが、透明になるような気がした。
「自然って、すごいね」
ゆらめく神秘の青を見つめながら、歩はぽつりと呟いた。
わたしは、こくりとうなずいた。
「みちると一緒に見られて、本当によかった」
歩はわたしに顔を向けて、ふんわりとした笑みを浮かべた。

この色、きっと、一生忘れない。
少しひんやりとする潮風も。
闇を照らす、満月も。

これからも、歩の隣でいっしょに見る景色を胸に刻んでいきたい。
わたしの体を、いろんな色に染めていきたい。
歩となら、きっと、素敵な色になる。
わたしは歩の手を、しっかり握り返した。