さよなら、ブラック

暑い日は続いているけれども、セミの鳴き声がアブラゼミからツクツクボウシに変わっていた。
やがてもうすぐ、秋がやってくる合図。
わたしは、この季節があまり好きではなかった。
これから日ごとに、日が短くなる。
なんとなく、寂しい。
なぜか、人恋しくなる。

あの日を境に、歩への思いは日に日に募っていった。
そして、彼の部屋へ時々遊びに行けるようになった。
部屋で一緒に映画を観たり、シングルベッドにふたり寄り添って昼寝をしたり。
だけど、歩はわたしを抱きしめたりキスすることはあっても、それ以上は手を出さなかった。

歩だって男なんだから、男の欲求はあるはず。
それをわたしのために、抑えてくれている。
そう思うと、辛かった。

歩の部屋でいっしょに夕ご飯を食べていた時、テレビで大きな花火大会の映像が流れた。
「やっぱり都会の花火大会は豪華だね」
歩は口を動かしながら、スプーンでテレビを指す。
「この前のとは、規模が違うね」
テレビに映る豪快なスターマインを眺める。

それを見て、この前歩に言われたことを思い出していた。

『下手に触れたら、壊れてしまいそうだ』

わたしって、そんなふうに映ってたんだ。
歩はわたしのこと、とっても大事にしてくれているのに、わたしは彼になにもしてあげられない。
頭ではわかっていても、気持ちが追いつかない。
歯がゆい。
自分が嫌になる。
ああ、あの時のあの記憶だけ消せたらどんなに楽だろう。
体の中にある真っ黒なものを取り出せたら、どんなに楽だろう。
そうしたら、わたしはきっと、きれいになれるのに。
テレビに映る大輪の花が、華やかできれいでうらやましかった。

その時。
歩の携帯が鳴った。
何気なく携帯の画面を見た歩の表情が固まった。
画面を見つめたまま、動かない。
「どうしたの?」
顔をのぞき込む。
「あ、ああ。うん、えっと、妹からだった」
明らかに動揺している。
「歩?」
よく見ると、目が少し赤くなっていた。
すると、歩は中指を目頭にあて、
「チロが死んだんだって」
と言って、溢れそうになる涙を指で抑えつけた。
「チロ?」
「俺んちの犬」
「鼻をサワガニに挟まれたわんちゃん?」
わたしがそう言うと、歩は笑顔を作って、うんうん、とうなずいた。
「ごめん。なんか、恥ずかしいところ見せちゃったな」
歩は、もう一度目頭に指を押し付けた。

「子供の頃からずっと一緒だったんだよね」
涙を隠すように、あえて明るく話している様子がなんだか痛々しくて、わたしは思わず歩を抱きしめてしまった。
「みちる……」
歩はわたしの背中に腕を回して、ぎゅっと力を入れた。
大きな体が少し小さくなっていた。
「ありがとう」
歩は息ができなくなるくらい、わたしを強く抱きしめた。

チロのこと、大好きだったんだね。
ずっと、一緒だったんだもんね。
寂しいよね。つらいよね。
わたしは歩の顔にそっと手をそえた。
歩の哀しみが、少しでもやわらぎますように。
そう祈って、わたしはそっとキスをした。

唇を離すと、歩は少し驚いた表情をしていた。
わたしはそれに微笑んで返した。
すると、今度は歩の唇がわたしの口をふさいだ。
熱をおびた熱いキス。
そしてそれは次第に激しくなり、わたしは彼の吐息に溺れていった。

唇を離した歩は、憂いをおびた目でわたしを見つめた。
そして。

「触れたい」

と、かすれた声で囁いた。
わたしの心臓が膨れあがった。
鼓動が部屋中に響き渡っているような気がした。

少し目が赤くなっている歩の目を見つめた。
わたしの愛しい人。
かわいい人。
わたしは、もう一度彼の頬を手で包み、キスをした。

大丈夫。
歩となら、きっと乗り越えられる。

「こっちにきて」
部屋の明かりを消した歩は、わたしをベッドに寝かせた。
上からわたしを見つめ、指を絡める。
優しいキスが何度も降ってきた。
まるで、五月雨のよう。
「大好きだよ」
そう言って、その唇はわたしの耳を甘噛みしたり、首筋を通って遊んだり。
「くすぐったい」
「かわいいよ」
わたしの鼻にキスをした。

歩はゆっくりとブラウスのボタンを外していく。
わたしの肌があらわになった。
恥ずかしくて、思わず目をそむけた。
彼の手と唇が、わたしの体を優しく包む。
体が浮かび上がりそうな感覚になる。

温かい手。
熱い唇。
穏やかな瞳。
すべてが愛しい。
満たされていく。
このまま、彼の胸の中で溺れていきたい。
ところが。

「入れてもいい?」

歩のその一言で、わたしのやわらかいところがコンクリートのようになった。
津波のように押し寄せる記憶。
抑えつけられたわたしの体。
激しい痛み。
血がにじんだ、あいつの顔。

わたしの体は、一瞬にして黒くなった。
その時、上から見つめている歩の顔が歪んで見えた。
この男は誰!?
わたしは目の前にいる男を、両手で思いきり突き飛ばし、
「やめて!」
と叫んでいた。
「こわいこわいこわいこわい…」
わたしは頭を抱えて、髪をつかんだ。
あの日の残像がまだ頭から消えてくれない。
わたしは頭をかき混ぜた。
呼吸が荒くなる。
苦しい胸の痛みを紛らわせるために、自分の手の甲や指を何度も噛んだ。

突き飛ばされた歩は、豹変したわたしに戸惑いながらも、すぐに後ろからわたしを抱きしめてくれた。
そしてわたしの手を口からはがして、噛むのをやめさせた。
歯形だらけになってしまったわたしの手をぎゅっと握り、
「大丈夫大丈夫」
と何度も耳元で囁いた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」
途中でやめたりしたら、また怖い目に合う。
抑えつけられる。
お願い、許して。
いつの間にか、頬に涙が伝っていた。

「どうして謝るの」
歩はわたしを抱きしめたまま、穏やかに尋ねる。
「怒られるから。こわいから」
「こわくない。大丈夫」
「だけど、怒られる……こわい……」
わたしは何度も頭を振った。
「俺は、怒らない。大丈夫」
そう言って、歩は抱きしめている腕に力を入れた。
「ほんとに?」
わたしのその問いかけに、歩は優しく微笑んだ。
「怒らないよ。そんなことで」
わたしの髪を、ゆっくり撫でてくれた。
ずっとずっと。

歩の優しさに包まれて、堰を切ったように涙が溢れた。
「わたしはね、真っ黒なの。汚いの……」
歩の腕の中で、呟いた。
「汚くなんかないよ」
そう言ってくれたけれど、わたしにはそうは思えなかった。
「ううん。汚れてる。真っ黒」
「そんなことない。みちるは汚れてない。真っ黒じゃない」
「だけど……」
「信じて?」
歩のことは信じたい。
だけど。
自分が真っ黒じゃないって、どうしても思えない。

「ねえ」
歩はわたしにタオルケットをかけてくれた。
「俺は、みちるを傷つけるようなことはしないよ」
手を伸ばして、わたしの頬をそっと包む。
温かい手。
いつもわたしを包んでくれる大きな手。
この手にずっと包まれていたい。

わたしはそっと手を重ねた。
歩の大きな優しさに触れた。
わたしの涙が温かいものに変わった。
この温かい涙といっしょに、わたしの中の黒いものが全部流れてしまえばいいのに。

歩の胸に寄りかかると、彼はそっと抱きしめてくれた。
「ねえ、みちる」
甘い声が降ってくる。
「なに?」
「俺たちってね。出会うべくして出会ったんだと思うんだよね」
そう言って、歩はわたしの髪を優しく撫でた。
「ふたりでゆっくり歩めば、愛、みちる。……なんてね」
にんまり笑った歩を見て、わたしも思わず笑みがこぼれた。
「……だからさ」
歩はわたしを優しく包み込みながら言った。
「みちるをもっと、知りたいんだ。みちるの痛みを、俺にもわけてほしい」

歩の優しい言葉が体に染みわたる。
だけど、痛みという言葉に、体が反応した。
まるで連想ゲームのように、あの時の痛みが蘇る。
わたしの体に力が入っているのがわかったのか、歩は抱きしめる腕に力を入れた。
「……ごめん。嫌なら、話さなくていいよ。無理はしなくていいから」
そう言った歩の声は、とても寂しそうだった。
歩は、黙ったままわたしの髪をずっと撫でている。
涙が止まらなかった。
わたしはこんなに大切にされているのに。
……。
このままじゃ、いけない。
歩を悲しませたくない。
だけど。
話すのが、怖い。
時計の秒針が進む音だけが、部屋の中で響いていた。