君の声

「……もちろん」
 小さく呟いた詩織の声に樹も小さく頷いた。

「ありがとうございました。おやすみなさい」
 手を振り、マンションへ消えていく詩織を見送って樹は車を走らせた。
『もし忘れてることがまだあるのなら、思い出したい。そう思うんです』
 詩織の言葉が頭の中で繰り返される。
 思い出してほしい。
 仕事のパートナーでいい、と自分に言い聞かせながらも本当は心のどこかでそう思っていた。
 俺が君の恋人だったんだと。あの頃、どれだけ君を好きだったのか。
 それを伝えられたらどんないいか。考えないわけではなかった。
 きっと藤川の話を聞く前の樹なら、記憶を取り戻す手伝いを申し出たかもしれない。けれど、今の樹は迷いも抱えていた。
(俺がそばにいたら、詩織はいつか思い出す日がくるかもしれない)
 以前綾から聞いた「詩織が思い出しかけているかもしれない」という言葉。あの時はそんなはずはないと思った。自分といる詩織は、付き合っていた頃の詩織ではない。初めましてと挨拶を交わしたあの日の詩織と同じなのだと、思い込もうとしていた。
 あの言葉が、詩織の横顔が、樹の頭から離れない。
(だけど、それは詩織を傷つけることにならないか)
 記憶を取り戻すということは、大学時代のあの日々のことも思い出すということ。詩織の優しさに甘え、自分の忙しさを理由に詩織の寂しさに気付けなかった。何度も詩織を傷つけた。その記憶はもう一度、詩織を傷つけることになるんじゃないか。
『海外に支店を作る話がある』『その立ち上げメンバーの中心になってほしい。』
 ふと神崎の言葉が蘇る。ハンドルを握る手に力が入る。
「……海外、か」