君の声

 ◇

「え、佐野って彼女と別れたの?」
 誰かが何気なく口にした一言は、あっという間に大学中へ広まった。
「高校から付き合ってた子だろ?」
「結構長かったよな。」
「今、フリーってこと?」
 学食でも、講義前の教室でも、そんな声が聞こえてくる。
 俺は苦笑いを浮かべるだけだった。
「まぁいろいろあって。」
 それ以上は何も話さない。事情を知る者はいない。
 自分から話すつもりもなかった。

 ◇

「佐野!」
 講義が終わり、教室を出ようとしたところで後ろから肩を組まれた。
「今日さ、合コンあるんだけど来ね?」
「……合コン?」
「そうそう。」
「かわいい子来るらしいぞ」
 友人たちのにやけ顔に、思わず笑った。
「興味ない」
「そう言うなって」
「人数合わせでもいいからさ」
「絶対楽しいって」
「悪いな、他当たって」
 そう言って歩き出すと、友人が慌てて後を追ってくる。
「一回くらい行こうぜ」
「ずっとサークルとバイトばっかじゃん」
「たまには息抜きしろよ」
 思わず足が止まる。
 息抜き
 その言葉が妙に胸に残る。
 忘れたい。もう終わった恋なんだ。向こうには新しい相手がいる。
 そう思っているはずなのに、心だけが追い付かない。
「……一回だけな」
「よっしゃ!」
 友人は満面の笑みで拳を握った。

 ◇

 夜。店に入ると、男女四人ずつの席が用意されていた。
「佐野くんって、イベントサークルなんだ」
「そう。」
「なんかモテそう」
「そんなことないよ」
 笑いながら返す。自然に会話が弾んだ。
 その中でも一人の女性とは不思議なくらい話が合った。
 映画の趣味も。好きな音楽も。休日の過ごし方も。
「じゃあ今度、一緒に映画行かない?」
 そう言われたとき。俺は少しだけ考えてから頷いた。

 ◇

 一カ月ほど経つ頃には、何度もメッセージを交わした。映画を観に行って、食事をして、休日には買い物にも付き合った。彼女と会うことが当たり前になり始めていた。
 無理をしている感覚はなかった。一緒に居て居心地が悪いわけでもない。むしろ楽しかった。笑える自分がいた。詩織を思い出す時間も、少しずつ減ってきた気がしていた。
 もしかしたら。 この人となら。
 このまま本当に前を向けるのかもしれない。

 ◇

 彼女の部屋でテレビを眺めながら他愛もない話をする。
 笑い合って、沈黙も苦にはならない。
「コーヒー入れ直そうか」
「ありがとう。」
 流れるテレビをぼんやり見つめる。
「佐野くん」
 名前を呼ばれて振り向くと、彼女はいつの間にか隣へ座っていた。
「今日ね。楽しかった」
 そう言って、肩にもたれかかってくる。そのまま手が重なった。
「私じゃ……だめ?」
 そのままゆっくり彼女の顔が近づいてくる。目を閉じれば、このまま……
 その瞬間だった。頭に浮かんだのは彼女じゃなかった。
 夕日に照らされて笑う詩織。
 楽しそうに笑う横顔。
 頬を赤く染め照れたり、怒ったりして見上げる顔。
 充電って言って、抱きしめた温もり。
 朝ごはんを作って笑う詩織。
 初めてキスした時の照れた顔。
 俺の腕の中で安心しきって眠る寝顔。
 そして最後に見た涙と、震えながら言った一言。
『……もういいよ。』
「……っ」
 俺は反射的に距離を取った。
「……ごめん」
「え……?」
 彼女は困ったように笑う。
「私じゃダメ?」
 その問いに俺は静かに首を振った。
「ごめん。」
 少しの沈黙。
「忘れようと思った」
 掠れた声で続ける。
「君といる時間は楽しかった。この人となら前へ進めるかもしれないって、本気で思った」
 自分で言って苦笑する。
「……大丈夫だと思ったんだ」
 ゆっくり目を閉じる。浮かんでくるのは——
「でも。笑ってる顔も、最後に泣かせた顔も。全部、忘れられなかった」
 深く頭を下げた。顔を上げて見た彼女は、目元を少しだけ潤わせていた。
「……好きになってもらえたと思ったんだけどな」
 無理に笑おうとしてその笑顔が痛々しかった。
「……期待させたなら、ごめん」
 俺はそう言って逃げるように彼女の部屋を後にした。
 彼女の部屋を出て、夜風を受けながら、一人で駅まで歩く。街の明かりがぼんやり滲んで見えた。
 本気で前へ進もうと思っていた。誰かを利用するつもりなんてなかった。ちゃんと向き合おうと思っていた。
 それでも。
 心の中にいたのは、たった一人だった。
 信号待ちで足を止める。ポケットからスマホを取り出す。数回タップしたのち、耳元にあてる。
「……俺、やっぱダメだ」
 静かな夜に、その声だけが溶けていく。
『……だろうな』
 相手の声を聞きながら長く息を吐く。
 その夜を境に、俺は誰かで詩織を忘れることをやめた。