君の声

 ◇
  
 帰宅したマンションの部屋は、どこまでも静かだった。
 ネクタイを緩め、ソファに深く沈み込む。ポケットから取り出したスマートフォンが、暗闇の中で通知を待っているように鈍く光る。
 画面には、今日登録した『白石詩織』の文字。
 指先が画面をなぞる。何かを送ってしまえば、彼女のスマートフォンに樹の名前が表示される。
(……今日じゃない)
 樹は端末を裏返してテーブルに置く。
 明日、また仕事で会える。
 言葉を交わせるし、彼女の反応を見ることができる。
 それだけで十分だと言い聞かせながら、樹は天井を仰いだ。飲みかけの缶ビールが、喉を通るたびに苦く感じた。

 一方、その頃。
 都内にある「ヴォイス・パレット」のオフィスは、消灯間近だった。
 静まり返ったフロアにパソコンの駆動音だけが小さく響いている。
 詩織はヘッドホンを首にかけ、水族館の音源データと長時間向き合っていた。
 「……難しいな」
 小さく漏れた声は、誰にも聞かれないまま消える。
 樹から指摘された課題。会議の場では落ち着いて答えたけれど、本当は簡単な話ではなかった。
 水槽の循環ポンプが発する低い振動音。観客が歩く床のかすかな軋み。空調や設備が生み出す、耳では気づかないほど微細な空気の音。それらは水族館という空間が呼吸している証だった。だから全部消してしまえばいい、という話ではない。
 詩織はキーボードへ指を伸ばす。波形を拡大し、一つずつ音を確認していく。不要なものだけを削り、本当に残すべき音を探す。まるで暗い海の中で、小さな光を拾い集めていくような感覚だった。耳を澄ませる。
 何度も聞いていたはずの音なのに、不思議と今日は少し違って聞こえる。
『……だからこそ音響チームの腕が試される』
 ふいに思い出した低い声に、指先が止まった。真っ直ぐ向けられた視線。試すようでいて、どこか信じているような目。
 思い出しただけなのに、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
(……どうしてだろう)
 会ったことなかったはずなのに。話した時間だって、あの日を含めてもほんの少しなのに。なぜか、あの声は耳の奥に残っていた。詩織はそっと目を閉じる。そしてもう一度、音の中へ意識を沈めた。
 削るんじゃない。消すんじゃない。そこにある音を、自然に馴染ませる。
 その瞬間——
「あ……」
 小さく声が漏れる。違和感が消えた。静かだった。けれど無音じゃない。そこには確かに空間が生きていた。
 詩織はゆっくり息を吐き、机に額を預ける。スマートフォンの画面がふっと光った。
 通知は、ない。
 それなのに。
 今もどこかで、あの人が同じ景色を見ているような気がして。
 その理由の分からない感覚が、胸の奥を少しだけ温かくした。

 
「……もう遅いか」
 誰に言うでもなく呟く。時計の針は、日付が変わったことを告げている。
 朝になれば、彼女はまた「佐野さん」と、少しだけ律儀な笑みを浮かべて挨拶してくれるはずだ。
 その時、俺がすべきことは、個人的な感情を押し殺して、誰よりも彼女の才能を引き出し、このイベントを成功させることだけだ。
 樹は大きく息を吐き、枕に頭を沈めた。
 まぶたの裏に、昼間見た彼女の無防備な笑顔が浮かぶ。
 ――記憶が戻ることは、今の彼女にとって幸せなことなのだろうか。それとも、この穏やかな日々を壊すことになってしまうのだろうか。
(……明日、話そう)
 仕事の話の続きを。
 本当は、名前を呼ぶだけでいいから、昔の話がしたい。
 そんな未練を、樹は強引に心の奥底へと鍵をかけて閉じ込めた。
 
 明日のミーティングまで、あと数時間。
 眠らなければならないのに、樹の意識は、薄い膜一枚隔てた向こう側にいる彼女のことでいっぱいで、なかなか深い闇に落ちてはいかなかった。

 同じ夜の下で、それぞれ別の場所にいる二人。
 忘れてしまった記憶と、忘れられなかった記憶。
 その間にある距離は、まだ遠い。
 けれど、止まっていた時間は確かに少しだけ動き始めていた。