君の声

「久しぶりだね」
 そう言って微笑む男を詩織は目を丸くして見つめている。
「あ、えっと……」
「ちょっと。俺の事忘れた?」
 男は苦笑しながら、スーツの胸ポケットから眼鏡を取り出して掛けてみせる。その姿を見た瞬間、詩織の表情が変わる。
「……藤川先輩?」
「やっと思い出してくれた。」
「すみません……。最初、全然分からなくて」
「そりゃ無理もないよ。何年振りだっけ?」
 藤川は苦笑しながら肩をすくめた。
「先輩が卒業してからだから……5年くらい?」
「もうそんなになる?元気そうでよかった」
「はい、おかげさまで」
 詩織も笑顔で頷く。二人の穏やかなやり取りを樹は一歩後ろから静かに見つめていた。
「ご紹介します。こちら、佐野さんです。今お仕事一緒にさせてもらってて」
「初めまして、佐野です」
「……どうも、藤川です」
 樹は人当たりのいい笑顔を浮かべて頭を下げる。藤川は一瞬間を置いて笑顔で頭を下げた。けれど視線はすぐに詩織に向けられる。
「そういえば、あれから体調とか大丈夫?」
「……はい。」
「そっか。よかった」
 藤川はほっとしたように笑った。
「あの頃は大変だったからさ。元気そうで安心した。」
「ありがとうございます」
 詩織は柔らかく笑った。樹は二人のやりとりを静かに見つめる。事故の事まで知っている——それだけでこの藤川という男が、詩織にとって近しい存在だったことは十分に伝わってきた。
「じゃあ俺そろそろ行くね。」
「はい」
 藤川はそう言うと樹にも軽く頭を下げて反対方向へ歩いて行った。
「知り合い?」
 遠くなる藤川の背中を見つめながら樹は詩織に尋ねた。
「はい。大学の先輩です。ゼミでは結構お世話になりました」
 詩織はそう言って照れくさそうに笑う。大学時代。それは樹にとって知らない時間。
 ——やめておこう
「……そっか」
 それだけ答えて「行こうか」と歩き出す。
 詩織をマンションまで送り届ける。
「今日は本当にありがとうございました。」
「いや、こっちこそ。」
「じゃあ、また」
 オートロックを開け、小さく手を振って中に入っていく詩織に樹も手を振り返した。
 詩織の姿が見えなくなってから、来た道を引き返す。

 楽しかった。間違いなく、充実した一日だった。
 それなのに。
 
 『大学の先輩です』
 
 詩織の言葉が不意に胸の奥で繰り返される。
 車に乗り込むと、静かに音楽が流れ始めた。
 ぬいぐるみを受け取って嬉しそうに笑った顔。
 「楽しかったです」とはしゃいだ声。
 「かわいいね」と言われて照れた表情。
 人混みの中で咄嗟に掴んだ手首の温もり。
 今日一日の詩織、が次々と頭をよぎる。
 そして、不意に重なるもう一つの光景。
 信号待ちの車内で交わした会話。
 
 『眠い?』
 『ちがいます』
 『じゃあ、何考えてた?』
 『楽しかったなって』
 
 助手席に視線を向ける。さっきまでそこにいた詩織の笑顔が、まだ残っている気がした。
 ——あんな顔で笑うんだ。
 それが嬉しかった。
 同時にもっと見たいと思った。
 変わらないあの頃の詩織に会えたことが嬉しかった。
 でも今日一日を一緒に過ごして分かった。
 俺が好きなのは、あの頃の詩織だけじゃない。
 今、目の前で笑っている詩織も。
「……やっぱり好きだ」
 小さく漏れた本音に自嘲するように笑う。
 じゃあ、どうする。
 昔のことを思い出すのを待つのか。
 それとも——。