◇
翌日。
午後の水族館はイベント初日ほどの慌ただしさはなかった。それでも家族連れやカップルの姿があって、スタッフたちは慌ただしく動いている。詩織は資料の入ったバッグを持ちながらバックヤードを歩いていた。
(……なんで少し緊張してるんだろ)
仕事だ。資料を届けるだけ。それなのに昨日のやりとりを思い出して少しだけ落ち着かない。スタッフルームの扉を開ける。
「失礼します」
「あ、白石さん!」
先に気づいたのは広瀬だった。
「来た!」
「え?」
「先輩!白石さん来ましたよ」
なぜか大きな声で呼ばれて、詩織はびくりと肩を揺らした。少しして奥から樹が顔を出す。
「お前、うるさい」
「だって待ってたじゃないですか」
「待ってない」
即答だった。その顔が少し困ったように笑っていて。
「……こんにちは」
そう言った詩織に向けられた視線はどこか少しだけ柔らかかった。
「お疲れ。来てくれてありがとう。」
その言葉を聞いた瞬間。
どうしてだろう。胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「こちら、資料です」
「助かる」
「追加の修正も反映してあります」
詩織がバッグから資料を取り出す。樹は受け取りながらぱらぱらとページをめくった。
「……うん、大丈夫そうだね」
「よかった」
そこで会話が一度途切れる。話すことがなくなったわけじゃない。ただ、仕事なら本来ここで終わりのはずだった。なのに、どちらもすぐには動かなかった。
「休憩でも行く?」
「休憩ですか?」
「コーヒーくらい奢るよ」
「チーフってそんなに暇なんですか?」
「失礼だな」
お互いが少しだけ笑う。樹は広瀬に「休憩行ってくる」と声をかけて二人で部屋を出る。
「あ、そうだ」
詩織はふと思い出したようにバッグを開いた。
「これ」
小さな紙袋を差し出す。樹はきょとんとした顔をしている。
「差し入れ?」
「昨日言ってたやつです。一人じゃ多いので」
「……ちゃんと持ってきたんだ」
樹は目を丸くする。
「持ってきてって言ったの、佐野さんじゃないですか」
「半分冗談だったんだけど」
「えっ」
「半分は本気」
「なんですかそれ」
二人で歩きながらバックヤードを抜けていく。館内に入ると、水槽の青い光が足元までゆっくり伸びていた。イベント期間中だからか、平日でも人は多い。子どもの笑い声と、静かな館内音楽が混ざっている。
「あ」
不意に詩織が立ち止まった。
「どうした?」
視線の先。クラゲの水槽だった。ゆっくり浮かんでは沈む、青白い光。
それを見た瞬間だった。胸の奥が不意にざわついた。
「白石さん?」
樹の声に、詩織ははっと我に返る。
「……あ、ごめんなさい。ぼーっとしちゃいました」
「大丈夫?」
「はい……ただ」
小さく首を傾げる。
「なんかここ、落ち着くなって思って」
その言葉に。樹だけが、ほんの少し目を見開いた。
「……そっか」
小さく笑ってそれ以上は何も言わない。数秒だけ二人並んでクラゲを見上げる。
やがて樹が小さく息を吐いた。
「ずっとここにいると仕事に戻れなくなるな」
「ふふ、確かに」
少し館内を歩いて外へ出る。途中の自販機の前で樹は足を止めた。
「何飲む?奢るよ」
「でも」
「チーフ特権」
「なんですかそれ(笑)お任せします」
樹は笑いながらカフェオレとブラックコーヒーを取り出した。
「はい」
樹が差し出す缶を受け取った詩織は少し目を丸くした。
「……カフェオレ」
「好きでしょ」
樹はいたずらっぽく笑う。
「否定はしませんけど」
「ならよかった」
しばらく二人で並んで歩いた。
「……あ」
気づいたように詩織が顔を上げた。
「ここ……」
裏手の小さな広場。自販機とベンチが置かれ、少し奥にバスケットコートがある、今は人の少ない場所。夜じゃないから、初日とは景色が少し違う。昼下がりの柔らかな光がコンクリートを照らしている。
「またここですね」
小さく笑いながら詩織が言う。樹は足を止めた。
「……だな」
偶然だった。……いや、多分違う。無意識だっただけだ。初日もここだった。樹はそこで思考を止めた。
「佐野さん?」
「ん?」
「なんか今日、ぼーっとしてません?」
「失礼だな」
「ふふ」
そう言って笑う詩織を見て樹は小さく息を吐いた。二人でベンチに座る。それぞれが缶を開ける音がする。
「最近どう?」
「おかげさまで忙しくさせてもらってますよ」
「そっか。忙しくて昼飯抜いたりしてない?」
「……食べてます」
「嘘だな(笑)」
樹が笑う、詩織は少し不服そうにカフェオレに口をつけた。
「ちゃんと食べないと。」
「むぅ……佐野さんはどうなんですか、最近」
「俺?俺はずっとここで作業。イベントが終わるまでは気が抜けないって感じかな」
そう言う樹の顔はどこか楽しそうで、詩織の胸の奥が僅かに跳ねた。
「でも意外でした。」
「なにが?」
「佐野さんって、もっとピリピリしてる人かと思ってました」
「ひどくない?」
「最初は、です(笑)」
詩織はいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、今は?」
何気なく聞いたつもりだった。詩織は少しだけ考えて、それから笑った。
「……一緒にいると安心する人、です」
一瞬だけ、風の音が耳に残った。樹は何も言わない。言えなかった。ただ缶コーヒーを口元に運ぶ。苦いはずなのに、なんだか今日はよくわからなかった。
翌日。
午後の水族館はイベント初日ほどの慌ただしさはなかった。それでも家族連れやカップルの姿があって、スタッフたちは慌ただしく動いている。詩織は資料の入ったバッグを持ちながらバックヤードを歩いていた。
(……なんで少し緊張してるんだろ)
仕事だ。資料を届けるだけ。それなのに昨日のやりとりを思い出して少しだけ落ち着かない。スタッフルームの扉を開ける。
「失礼します」
「あ、白石さん!」
先に気づいたのは広瀬だった。
「来た!」
「え?」
「先輩!白石さん来ましたよ」
なぜか大きな声で呼ばれて、詩織はびくりと肩を揺らした。少しして奥から樹が顔を出す。
「お前、うるさい」
「だって待ってたじゃないですか」
「待ってない」
即答だった。その顔が少し困ったように笑っていて。
「……こんにちは」
そう言った詩織に向けられた視線はどこか少しだけ柔らかかった。
「お疲れ。来てくれてありがとう。」
その言葉を聞いた瞬間。
どうしてだろう。胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「こちら、資料です」
「助かる」
「追加の修正も反映してあります」
詩織がバッグから資料を取り出す。樹は受け取りながらぱらぱらとページをめくった。
「……うん、大丈夫そうだね」
「よかった」
そこで会話が一度途切れる。話すことがなくなったわけじゃない。ただ、仕事なら本来ここで終わりのはずだった。なのに、どちらもすぐには動かなかった。
「休憩でも行く?」
「休憩ですか?」
「コーヒーくらい奢るよ」
「チーフってそんなに暇なんですか?」
「失礼だな」
お互いが少しだけ笑う。樹は広瀬に「休憩行ってくる」と声をかけて二人で部屋を出る。
「あ、そうだ」
詩織はふと思い出したようにバッグを開いた。
「これ」
小さな紙袋を差し出す。樹はきょとんとした顔をしている。
「差し入れ?」
「昨日言ってたやつです。一人じゃ多いので」
「……ちゃんと持ってきたんだ」
樹は目を丸くする。
「持ってきてって言ったの、佐野さんじゃないですか」
「半分冗談だったんだけど」
「えっ」
「半分は本気」
「なんですかそれ」
二人で歩きながらバックヤードを抜けていく。館内に入ると、水槽の青い光が足元までゆっくり伸びていた。イベント期間中だからか、平日でも人は多い。子どもの笑い声と、静かな館内音楽が混ざっている。
「あ」
不意に詩織が立ち止まった。
「どうした?」
視線の先。クラゲの水槽だった。ゆっくり浮かんでは沈む、青白い光。
それを見た瞬間だった。胸の奥が不意にざわついた。
「白石さん?」
樹の声に、詩織ははっと我に返る。
「……あ、ごめんなさい。ぼーっとしちゃいました」
「大丈夫?」
「はい……ただ」
小さく首を傾げる。
「なんかここ、落ち着くなって思って」
その言葉に。樹だけが、ほんの少し目を見開いた。
「……そっか」
小さく笑ってそれ以上は何も言わない。数秒だけ二人並んでクラゲを見上げる。
やがて樹が小さく息を吐いた。
「ずっとここにいると仕事に戻れなくなるな」
「ふふ、確かに」
少し館内を歩いて外へ出る。途中の自販機の前で樹は足を止めた。
「何飲む?奢るよ」
「でも」
「チーフ特権」
「なんですかそれ(笑)お任せします」
樹は笑いながらカフェオレとブラックコーヒーを取り出した。
「はい」
樹が差し出す缶を受け取った詩織は少し目を丸くした。
「……カフェオレ」
「好きでしょ」
樹はいたずらっぽく笑う。
「否定はしませんけど」
「ならよかった」
しばらく二人で並んで歩いた。
「……あ」
気づいたように詩織が顔を上げた。
「ここ……」
裏手の小さな広場。自販機とベンチが置かれ、少し奥にバスケットコートがある、今は人の少ない場所。夜じゃないから、初日とは景色が少し違う。昼下がりの柔らかな光がコンクリートを照らしている。
「またここですね」
小さく笑いながら詩織が言う。樹は足を止めた。
「……だな」
偶然だった。……いや、多分違う。無意識だっただけだ。初日もここだった。樹はそこで思考を止めた。
「佐野さん?」
「ん?」
「なんか今日、ぼーっとしてません?」
「失礼だな」
「ふふ」
そう言って笑う詩織を見て樹は小さく息を吐いた。二人でベンチに座る。それぞれが缶を開ける音がする。
「最近どう?」
「おかげさまで忙しくさせてもらってますよ」
「そっか。忙しくて昼飯抜いたりしてない?」
「……食べてます」
「嘘だな(笑)」
樹が笑う、詩織は少し不服そうにカフェオレに口をつけた。
「ちゃんと食べないと。」
「むぅ……佐野さんはどうなんですか、最近」
「俺?俺はずっとここで作業。イベントが終わるまでは気が抜けないって感じかな」
そう言う樹の顔はどこか楽しそうで、詩織の胸の奥が僅かに跳ねた。
「でも意外でした。」
「なにが?」
「佐野さんって、もっとピリピリしてる人かと思ってました」
「ひどくない?」
「最初は、です(笑)」
詩織はいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、今は?」
何気なく聞いたつもりだった。詩織は少しだけ考えて、それから笑った。
「……一緒にいると安心する人、です」
一瞬だけ、風の音が耳に残った。樹は何も言わない。言えなかった。ただ缶コーヒーを口元に運ぶ。苦いはずなのに、なんだか今日はよくわからなかった。
