君の声


 翌日。
 ヴォイス・パレットとの初回ミーティング。樹は自社の第一会議室で資料に目を落としていた。広瀬や他の部下とともに黒塚と担当者の到着を待つ。
「そろそろっすね」
 時計を確認し広瀬が呟いたのと同時に会議室のドアがノックされた。
「どうぞ」
 広瀬が答えたあとに会議室のドアが開いた。黒塚の後ろから入ってきた女性を見て樹は固まった。
(……嘘だろ)
 数週間前に再会したばかりで、忘れられるわけがない。詩織だった。きちっとスーツを着こなした彼女は少し緊張気味に黒塚の後ろで佇んでいる。
「今回の担当を任せます、白石です」
 少し緊張したように頭を下げた彼女が顔を上げる。そして目が合った。
「あ……佐野さん?」
「……やっぱり白石さんか。」
 一瞬だけ止まりそうになった呼吸を押し込めて、樹はいつもの笑顔を作った。
「改めまして。今回チーフプロデューサーを担当します、佐野です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
 隣の広瀬が首を傾げる。
「お二人、お知り合いなんですか?」
 樹と詩織は一瞬視線を合わせた。
「少し前に飲みの席で。」
「……はい。」
 それだけだった。でも樹の鼓動だけは全然落ち着いてくれなかった。
 まさかこんな形で詩織と再び会うことになるとは思ってもいなかった。ひとまず座るように促し、努めて冷静に、ポーカーフェイスで向き直る。
「俺たちの話は置いといて、ひとまず全員の自己紹介といきましょうか。」
 樹は明るくそう言うとまずは自分の部下を紹介していく。続いて黒塚が自分の部下を紹介する。ひとしきり挨拶が終わったところで樹が資料を配るように指示を出す。資料が全員の手元に届いたことを確認して声をかけた。
「資料は手元にいきました?では早速確認をしていきたいのですが――」
 樹の主導で初回ミーティングが始まった。初回の打ち合わせのはずなのに、次々と活発な意見が飛び交う会議室。樹は詩織が自分の企画にまっすぐに向き合っていることを嬉しく感じていた。こうして一緒に仕事ができることはどこかまだ信じ難いけれど、詩織が今まで積み重ねてきたものの一部を見せてもらえているようなそんな感覚もあった。
「やはり、メインの演出にはいる直前なんですが……無難にBGMを盛り上げますか?」
 ふと放たれた部下の言葉に樹は即座に反応する。
『いや、そこは――』
 自身の声と重なった音に驚いて思わず目を見張る。振り向けば詩織も同じように驚いた顔でこちらを見ていた。一瞬だけ、視線がぶつかる。
「……じゃあ白石さんに聞こうかな」
 樹は動揺を悟られないよう平常を装いながら促した。
「そこは一度音量を落とした方がいいと思います。」
 詩織は資料に視線を落としながら静かに続ける。
「盛り上げるより、あえて間を作る。次の演出音を目立たせるなら、その方が効果的です。ずっと音が鳴っている状態だと、聞く側の感覚が慣れてしまうので」
「うん、俺も同じこと考えてた。一呼吸置く意味でも音は下げたいし、静寂があった方が次が映える。」
 樹が頷くと詩織の表情がわずかに緩んだ。同じ意見だったことに安心したのかもしれない。だが、樹はそこで言葉を続けた。
「……ただ、だからこそ音響チームの腕が試される。水族館って常に水流音や濾過設備の反響がある。完全な無音はかなり難しい。本番でノイズが残ったら、その静寂は逆に気になると思う。ヴォイス・パレットとして、何か考えはある?」
 その声は真剣そのものだった。会議室の空気が少しだけ張り詰める。けれど詩織は、不思議と怖くなかった。むしろ低い声が耳に届くたび、胸の奥が妙にざわついた。
(……会ったことないはずなのに)
 理由の分からない感覚に戸惑いながらも、詩織は樹を真っ直ぐ見返した。
「ご指摘はその通りです。」
 落ち着いた声で答える。
「現状のプランだと、完全に消し切るのは難しいと思います。」
 静かな声だった。けれど、瞳だけは真っ直ぐ樹を見ている。
「ただ……無音を作るんじゃなくて、逆に空間に馴染む音を薄く残す方法ならあるかもしれません。静寂を『無音』にしようとすると失敗しやすいので、空調音や水音を馴染ませる薄い環境音を入れます。聞こえないくらいのレベルで下支えして違和感を消す形です。現地で確認しないと断定はできませんが、試してみる価値はあると思います。」
 一瞬だけ息を吸う。
「……少しだけ、お時間をいただけますか」
 その声は小さいのに、不思議と会議室によく通った。
「確かに難しいです」
 一度言葉を切る。
「でも、この企画って”思い出すための音”ですよね。だったら妥協したくないです。ちゃんと、届く音にしたい。なので、やらせてください」
 隣で黒塚が小さく息を吐いた。勢いで言った言葉じゃない。できることと、できないこと。その上で代案を出す。それが詩織の仕事だ。けれど胸の奥には、それとは別の感情があった。
(……認められたい)
 なぜか、その思いだけは妙に強かった。
 樹は真っ直ぐこちらを見る詩織の瞳に、ふと昔を重ねる。
(変わってない)
 真っ直ぐなところも。
 納得できないものを曖昧にしないところも。
 人より静かなのに、誰より熱いところも。
 懐かしさと切なさが胸をよぎる。それを押し込めるように、チーフプロデューサーとして口を開いた。
「なるほど」
 少しだけ口元が緩む。
「できませんで終わらず、代案を出してくれるんだね」
「仕事なので」
 詩織は淡々と返す。けれどそのあと、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。
「……期待は外さないつもりです。」
 その瞬間、会議室の空気が少し和らいだ。そして樹だけが、その小さな変化に気付いていた。
「わかった。そこまで言うなら白石さんの言葉を信じるよ」
「ありがとうございます」
 それ以降のミーティングは滞りなく進み、解散となった。樹は資料を片付ける詩織の元に向かう。
「白石さん」
「佐野チーフ」
「佐野チーフってなんか距離感じるなぁ」
 樹は苦笑いを零す。
「俺そんな偉そうに見える?」
「いや……偉いんですよね?」
「うわ、確認入った」
 おどけていう樹に詩織は小さく笑みを零す。
「せめて佐野さん、にしてよ。あの飲み会の時みたいに。」
「じゃあ……佐野さん。」
「固いなぁ……これから連絡とることもあるだろうし、もしよかったら連絡先交換しない?」
 ポケットからスマートフォンを取り出して樹は詩織に尋ねた。飲み会の時のような、あの柔らかな空気をもう一度だけ再現したくて。けれど、端末を差し出す指先がわずかに震えるのを悟られないよう、樹は必死にポケットの奥で拳を握り締める。
 詩織は「はい、ぜひ」と、何の躊躇もなく自分のスマートフォンを差し出した。
 ――その無防備な笑顔に、胸が少し痛んだ。
 自分だけが過去を知っている。それは苦しいことなのに、不思議と嫌じゃなかった。
 忘れていてもいい。
 無理に思い出さなくてもいい。
 今、彼女が笑っているなら、それでよかった。
 ……ただ少しだけ、欲張りを言うなら。
 またいつか、自分の名前を昔みたいに呼んでほしかった。
「じゃあ、送るね。何かあったら、いつでもここから連絡して」
 樹は、あくまで仕事上のツールを共有するだけの「事務的な表情」を貼り付けた。
 繋がった喜びよりも、彼女の生活領域に「仕事」としてしか踏み込めないという、残酷なまでの境界線を引いた自分への嫌悪が、樹の胸を突き刺していた。
「お疲れさまでした。また明日、よろしくお願いします」
 そう言って詩織たちを見送ったあと、会議室のドアが閉まり、背後の喧騒が遮断された廊下。
 樹は歩きながら、ふう、と深く息を吐き出した。
 自席へ戻るまでのわずかな距離。誰も見ていない一瞬の隙をついて、樹はポケットからスマートフォンを取り出す。
 連絡先リストの最上段に、登録したばかりの『白石詩織』という文字が浮かんでいた。
「……本当に詩織なんだな」
 樹の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
 彼女は、あんなにも平然と笑っていた。何も知らない、ただの「仕事上のパートナー」として俺を見つめていた。その事実は、鋭利な刃物のように樹の胸を何度も刺す。
 樹は震える指先で、さっきまでは「白石さん」と呼んでいたその名前を、指先でそっと、確かめるようになぞる。かつて、何の躊躇いもなく呼んでいたその名前。今は、画面の向こうにいる彼女との距離を思い知らされる。
「……馬鹿だな、俺」
 ――会いたい。昔みたいに、名前で呼び合いたい。
 けれど、その感情をスマートフォンごとポケットの奥へ押し込んだ。
 角を曲がれば、自分のデスクがある。そこには、彼の評価を待つ数字や、山積みの資料が待っている。
「……よし」
 樹は一度だけ小さく背伸びをし、気合を入れるように喉を鳴らした。
 デスクが見えた瞬間、彼の表情から未練の影は消え、いつもの「チーフプロデューサー・佐野樹」の柔らかな笑みが浮かぶ。
 誰も彼が数秒前まで、かつての恋人の名前に触れて泣きそうな顔をしていたなんて、夢にも思わないだろう。
 繋がったはずの回線は、依然として遠い。彼女との物理的な距離よりも、心の距離が、樹には何よりも遠く感じられた。