君の声

 あの時もらった言葉は、ずっと残っていた。
 今でも気づけば、無意識に口にしてしまうくらいに。
 ……本人は忘れてるけど。

 ◇

 スタッフルームの賑やかな声は、変わらずに続いていた。
 誰かが今日の来場者数の話をしていて、誰かが片付けの段取りを確認している。
 そんな中、詩織だけが少し不思議そうな顔で立ち尽くしていた。
「白石さん?」
 再び声をかけられて、詩織ははっと顔を上げる。
「え……あ、ごめんなさい」
「大丈夫?」
「大丈夫です。……私、あっち片付けてきますね」
 詩織はそう声をかけてディレクションルームの方へ駆けていった。その後ろ姿を樹はぼんやり見つめる。
「佐野さん」
 声をかけられ、樹は振り返る。そこには制作部の担当と営業責任者が立っていた。樹の背筋に緊張が走る。
「今日はお疲れさまでした。少しお時間いいですか?」
「はい。」
 樹は二人とともにそっとスタッフルームを後にした。
 
 ◇
 
 一通り話が終わって部屋を出た時には、時計の針は少し進んでいた。
 トラブルの件を厳しく追及されると思っていた。生のナレーションへの切り替えも、独断だと言われるかもしれないと思っていた。けれど、実際に飛んできたのは予想外の言葉ばかりだった。
 『あの判断はよかった』『現場対応も素晴らしかった』『白石さん、いい声してるね』『今後も期待しているよ』そんな言葉を思い返しながら樹は小さく息を吐いた。特に最後の言葉だけは、妙に胸に残った。
 ——『いい人、見つけたね』——
 それから社長も帰り際にそんなことを言っていた。
『佐野くん、今後についても少し考えている』
『また改めて話そう』
 深い意味なんてない。ただの激励だと思っていた。そう思いながらポケットからスマホを取り出す。
『広瀬、先始めといて』
 短く送信して、樹は画面を閉じた。
 ……今は、一人でいたかった。

「明日の段取り終わったらスタッフルーム使って軽くやるらしいですよ」
「館長から差し入れ来てました!」
「え、マジで!?」
 誰かの声に一気に盛り上がる。詩織はケーブルをまとめながらほっと胸を撫で下ろす。今日の運営を無事に終えた安堵がじわじわ込み上げてくる。気になるのは頭を掠めた声だった。
 会場の片づけがひと段落し、スタッフルームには軽食と飲み物が並び始めていた。スタッフたちの緊張がほどけ、ようやく笑い声が戻ってくる。
「いやー、今日マジでやばかったっすね!」
「イルカのとこ、あそこ心臓止まるかと思った」
 広瀬が中心になって盛り上げている声を横目に、詩織は窓際でジュースを受け取った。
「白石さん、乾杯しましょう」
「そうそう。今日の生ナレすごかったです!」
 スタッフたちが口々に誘ってくる。詩織は少しだけ、と輪に混ざった。
 けれど、どうにも落ち着かない。頭を掠めたあの声のこと。思い出せそうで思い出せない何かのこと。
「……少し外の空気吸ってきます」
 誰に言うでもなくそう呟いて、スタッフルームを出て静かな館内を歩く。
 ……そういえば、佐野さんも戻ってきてない。
 そんなことを考えた瞬間、自分で少しだけ首を傾げた。
(なんで私、気にしてるんだろ)
 そのまま歩いていくと、クラゲ水槽の前に見慣れた背中を見つけた。薄い青に照らされた横顔をぼんやり見つめていると、樹の視線がこちらに向いた。
「……白石さん。打ち上げじゃないの?」
「佐野さんこそ。チーフがいなくていいんですか?」
「広瀬に任せとけば勝手に回るよ」
 樹はおどけたように笑った。ゆっくりと詩織へ向かって歩いてくる。
「白石さんは?今日のMVP。」
「……外の空気が吸いたくて」
 隣に立った樹を見上げて言う。樹は穏やかな笑顔を浮かべると「そっか」と呟いた。
「外、出る?」
「……はい」
 樹の後について詩織は歩く。どちらも何も言わなかった。それでも沈黙は重くない。ただ、まだ名前のついていない時間だった。
 バックヤードから外に出る。外の空気は少し冷えていて、熱を帯びた余韻をゆっくり冷やしていく。裏手にある広場まで来て、自動販売機の前で樹は少しだけ迷った。
「……甘いの平気?」
「え?」
「なんとなく」
 樹はカフェオレとブラックコーヒーを取り出した。そこにあるベンチに座ると「お疲れ。」と樹が缶を差し出す。その缶に自分のもつ缶を詩織はそっと当てる。
「……今日さ」
 樹が先に口を開く。
「無茶ぶりしたのに、すごかったね」
「それ、さっきも聞きました」
「そうだっけ」
 少しだけ樹は笑う。現場とは違う肩の力の抜けた笑いだった。その顔を見た瞬間。胸の奥が小さく跳ねた。その時、樹のスマートフォンが震えた。画面には「広瀬」の文字。樹は小さくため息をついてポケットにしまう。
「いいんですか?」
「広瀬。どうせどこですかーって話だろ」
 樹はもう一度コーヒーを口に運ぶ。風が一度だけ吹いて、詩織の髪を揺らす。その仕草を見ながら、樹はふと視線を逸らす。
「……打ち上げ、戻る?」
 詩織は少しだけ考えて首を横に振った。
「今は、いいです」