そして迎えたイベント当日。
開場前から水族館は慌ただしかった。
周年記念イベント——ナイトアクアリウム。
館内には夜限定の音楽が静かに流れ、水槽を照らす照明も昼とは違う幻想的な色へ変わっている。天井や壁面には海と星空を重ねた映像が映し出され、来場者たちからは歓声が上がっていた。
「すごい……」
準備の合間に館内を見回し、詩織は思わず呟いた。昼間とはまるで別世界だった。
「だろ?」
隣に立った樹が笑う。
「ここまでは想像以上にいい感じ」
「ここまでって……佐野さん、まだ安心してないんですか?」
「本番終わるまではね」
そう言って笑う横顔を見て、詩織は小さく笑った。イベントは順調に進んでいた。館内展示も盛況。来場者の笑顔。子どもたちの歓声。準備してきたものが目の前で形になっていく。そして最後のプログラム。今回の目玉——イルカショー。
会場の照明がゆっくり落ちる。頭上には満天の星空。映し出された星々が夜の海に溶け込むように揺れていた。
『それでは皆さま。本日最後の特別プログラムです——』
詩織はナレーションを進めていく。
イルカが水面を跳ねるたび、星が流れ、光が広がる。完璧だった。
……はずだった。
「……キュー、早い」
ディレクションルームの広瀬の声が固まる。
モニター上のタイムラインがわずかにずれていた。
「イルカの登場、先に入ってます!」
「映像遅れてる!」
「音、走ってる!」
スタッフの声が一気に飛び交う。観客席がわずかにざわついた。まだ映像が完全に切り替わっていない。だが、音だけが先に進んでいる。
「止められません!本番シーケンス入ってます!」
一瞬で空気が変わった。ズレはほんの数秒。だけどその数秒が致命的だった。
耳元のインカムから聞こえる慌ただしい声に詩織の指先が強張った。
(どうしよう……)
頭が真っ白になる。今から修正なんて——。
『白石さん』
耳元で聞こえた声に、詩織は息を呑む。樹だった。
『録音切って』
「……え?」
『生でいこう』
会場の歓声が遠く聞こえる。
そんなの無理だ。頭が真っ白になる。
『……は?』
『いや、それかなりのリスク——』
『間に合わせる』
短く、迷いのない声。インカムの向こうでスタッフたちが息を呑むがわかる。
『白石さん』
少し笑ったような声。
『大丈夫』
たった一言。不思議なくらい、呼吸が落ち着いていく。
『俺がカウント出すから』
「……!」
『合わせればいい』
詩織はマイクの前に座り、ヘッドホンをつける。ガラス越しに見えるプールでは、イルカが水面を泳いでいた。そのさらに奥、モニターの並ぶディレクションルームで、樹がじっとみつめている。
ゆっくり息を吸う。耳元から落ち着いた声が聞こえる。
『3、2、1——』
イルカが水面から大きく跳ね上がる。
「皆さま、ご覧ください。夜の海を駆ける流れ星のように、イルカたちが大空へ飛び立ちます——」
『次、3、2、1——』
「頭上に広がる星空と、輝く海。その中を自由に泳ぐ姿は、まるで夢の世界のようです。』
会場から歓声が上がる。
『次、3、2、1-』
樹の声に合わせるように言葉を重ねる。
「次はどんな景色を見せてくれるのでしょうか。イルカたちの息の合ったパフォーマンスにご注目ください」
気づけば自然と言葉が出ていた。最初は緊張していたはずなのに、不思議と怖くない。耳元から聞こえる落ち着いた声が、ずっと隣にいてくれる気がした。気づけば詩織の顔に笑顔が浮かぶ。録音じゃない。今、この瞬間の空気を届けている。歓声も。水しぶきも。目の前の景色も。全部が”今”だった。
『次、ラストだ。3、2、1——』
樹の声が落ちる。最後のジャンプ。星空の映像の中へ、イルカが高く舞い上がった。
「夜空に描かれる一瞬の輝き。その特別な時間を最後までお楽しみください——」
水しぶきがライトに照らされて夜空の星みたいにきらめいた。数秒遅れて、会場いっぱいに拍手が広がる。
「すごーい!」
「綺麗だった!」
子どもたちの歓声と、大人たちの拍手が重なっていく。詩織はしばらくその場に立ち尽くしていた。
◇
ディレクションルームでは誰もすぐには言葉を発さなかった。広瀬が深く息を吐く。
「今のギリギリでしたね。」
ようやく出た声はどこか笑っていた。
「ギリギリでいいんだよ」
樹は短く返した。ガラス越しに見える詩織は、まだぼんやりとその場に立っている。思わず足が動きかけて、止まった。
……今はいい。
そのまま静かに部屋を出た。
◇
詩織はまだマイクの前に居た。ヘッドホンをつけたまま、少しだけぼんやり立っている。
終わった。 本当に終わったんだ。
『白石さん』
インカム越しに聞こえた声にはっとする。
『お疲れ』
いつもの落ち着いた声。だけど、その奥に少し笑っている気配がした。気づいた瞬間、急に全身の力が抜ける。
「……終わったんですね」
『あぁ。大成功』
思わずその場にしゃがみ込む。
「私……途中どうなるかと思いました」
『でもちゃんとやっただろ』
ふっと笑う声が聞こえる。
『すげぇ良かったよ』
「私はただ読んだだけです」
『んーそれは違うな』
樹は即座に否定する。
『読んだんじゃない。繋いだんだ。君の声で』
胸がまた、小さく跳ねた。
開場前から水族館は慌ただしかった。
周年記念イベント——ナイトアクアリウム。
館内には夜限定の音楽が静かに流れ、水槽を照らす照明も昼とは違う幻想的な色へ変わっている。天井や壁面には海と星空を重ねた映像が映し出され、来場者たちからは歓声が上がっていた。
「すごい……」
準備の合間に館内を見回し、詩織は思わず呟いた。昼間とはまるで別世界だった。
「だろ?」
隣に立った樹が笑う。
「ここまでは想像以上にいい感じ」
「ここまでって……佐野さん、まだ安心してないんですか?」
「本番終わるまではね」
そう言って笑う横顔を見て、詩織は小さく笑った。イベントは順調に進んでいた。館内展示も盛況。来場者の笑顔。子どもたちの歓声。準備してきたものが目の前で形になっていく。そして最後のプログラム。今回の目玉——イルカショー。
会場の照明がゆっくり落ちる。頭上には満天の星空。映し出された星々が夜の海に溶け込むように揺れていた。
『それでは皆さま。本日最後の特別プログラムです——』
詩織はナレーションを進めていく。
イルカが水面を跳ねるたび、星が流れ、光が広がる。完璧だった。
……はずだった。
「……キュー、早い」
ディレクションルームの広瀬の声が固まる。
モニター上のタイムラインがわずかにずれていた。
「イルカの登場、先に入ってます!」
「映像遅れてる!」
「音、走ってる!」
スタッフの声が一気に飛び交う。観客席がわずかにざわついた。まだ映像が完全に切り替わっていない。だが、音だけが先に進んでいる。
「止められません!本番シーケンス入ってます!」
一瞬で空気が変わった。ズレはほんの数秒。だけどその数秒が致命的だった。
耳元のインカムから聞こえる慌ただしい声に詩織の指先が強張った。
(どうしよう……)
頭が真っ白になる。今から修正なんて——。
『白石さん』
耳元で聞こえた声に、詩織は息を呑む。樹だった。
『録音切って』
「……え?」
『生でいこう』
会場の歓声が遠く聞こえる。
そんなの無理だ。頭が真っ白になる。
『……は?』
『いや、それかなりのリスク——』
『間に合わせる』
短く、迷いのない声。インカムの向こうでスタッフたちが息を呑むがわかる。
『白石さん』
少し笑ったような声。
『大丈夫』
たった一言。不思議なくらい、呼吸が落ち着いていく。
『俺がカウント出すから』
「……!」
『合わせればいい』
詩織はマイクの前に座り、ヘッドホンをつける。ガラス越しに見えるプールでは、イルカが水面を泳いでいた。そのさらに奥、モニターの並ぶディレクションルームで、樹がじっとみつめている。
ゆっくり息を吸う。耳元から落ち着いた声が聞こえる。
『3、2、1——』
イルカが水面から大きく跳ね上がる。
「皆さま、ご覧ください。夜の海を駆ける流れ星のように、イルカたちが大空へ飛び立ちます——」
『次、3、2、1——』
「頭上に広がる星空と、輝く海。その中を自由に泳ぐ姿は、まるで夢の世界のようです。』
会場から歓声が上がる。
『次、3、2、1-』
樹の声に合わせるように言葉を重ねる。
「次はどんな景色を見せてくれるのでしょうか。イルカたちの息の合ったパフォーマンスにご注目ください」
気づけば自然と言葉が出ていた。最初は緊張していたはずなのに、不思議と怖くない。耳元から聞こえる落ち着いた声が、ずっと隣にいてくれる気がした。気づけば詩織の顔に笑顔が浮かぶ。録音じゃない。今、この瞬間の空気を届けている。歓声も。水しぶきも。目の前の景色も。全部が”今”だった。
『次、ラストだ。3、2、1——』
樹の声が落ちる。最後のジャンプ。星空の映像の中へ、イルカが高く舞い上がった。
「夜空に描かれる一瞬の輝き。その特別な時間を最後までお楽しみください——」
水しぶきがライトに照らされて夜空の星みたいにきらめいた。数秒遅れて、会場いっぱいに拍手が広がる。
「すごーい!」
「綺麗だった!」
子どもたちの歓声と、大人たちの拍手が重なっていく。詩織はしばらくその場に立ち尽くしていた。
◇
ディレクションルームでは誰もすぐには言葉を発さなかった。広瀬が深く息を吐く。
「今のギリギリでしたね。」
ようやく出た声はどこか笑っていた。
「ギリギリでいいんだよ」
樹は短く返した。ガラス越しに見える詩織は、まだぼんやりとその場に立っている。思わず足が動きかけて、止まった。
……今はいい。
そのまま静かに部屋を出た。
◇
詩織はまだマイクの前に居た。ヘッドホンをつけたまま、少しだけぼんやり立っている。
終わった。 本当に終わったんだ。
『白石さん』
インカム越しに聞こえた声にはっとする。
『お疲れ』
いつもの落ち着いた声。だけど、その奥に少し笑っている気配がした。気づいた瞬間、急に全身の力が抜ける。
「……終わったんですね」
『あぁ。大成功』
思わずその場にしゃがみ込む。
「私……途中どうなるかと思いました」
『でもちゃんとやっただろ』
ふっと笑う声が聞こえる。
『すげぇ良かったよ』
「私はただ読んだだけです」
『んーそれは違うな』
樹は即座に否定する。
『読んだんじゃない。繋いだんだ。君の声で』
胸がまた、小さく跳ねた。
