君の声

 翌日。
 イベント会場となる水族館では今週土曜日の当日を控え、機材の搬入や最終チェックも大詰めを迎えていた。朝から詩織は音響スタッフと機材の配置の確認をしながら、慌ただしく動き回っていた。
「おはよう。」
 少し遅れてやってきた樹の声に詩織は思わず顔を上げた。
『優しい人、だったよ』
 いつもと同じはずなのに、昨日、綾に言われた言葉が頭を掠める。
(なんでだろう……今日、佐野さんの顔見づらいかも)
「白石さん、任せてごめん。順調?」
 何も知らない樹は、いつも通りの笑顔で声をかけてきた。
「え……あ、はい。順調、です」
 言葉に詰まりながら返事をする詩織を、樹が不思議そうに見る。
「どうした?体調でも悪い?」
「な、なんでもないです!私、あっち、見てきます!」
 樹が詩織の顔を覗き込む。詩織は慌てて首を横に振ると、そのまま走り出した。
「……なんだ?」
 樹は首を傾げて、その後ろ姿を見送った。。

「逃げてきちゃった……」
 建物の裏まで走ってきてその場にしゃがみ込む。どうしてかわからない感情に詩織自身も戸惑っていた。それでも仕事はある。
 戻ろうと立ち上がると、後ろから声を掛けられた。
「白石さん、だっけ?」
 振り返るとそこには、樹の会社の女性が立っていた。
「(確か……)牧野さん。」
 名前を覚えていたことに牧野は笑うと、詩織の前まで歩いてくる。
「どうしたの?」
「なんでもないです。すみません。」
 頭を下げ、去ろうとすると牧野が続けた。
「最近よく、佐野と一緒にいるよね」
 牧野の意図が分からず詩織は思わず足を止める。
「仕事でご一緒しているので」
「……そう」
 牧野は少し笑う。
「今回のイベント、うちの会社にとって一大イベントなんだ。まさに社運をかけたって感じ」
「伺ってます」
「そう。でもね、佐野にとってもすごく大事な案件なの。」
「え?」
「佐野さ、ずっとこの案件のために走ってたんだよね。寝る時間削ってずっと頑張ってきた。私、近くで見てたから。
 牧野は一度だけ詩織を見る。
「だから……これ以上、佐野を振り回さないで」
 それだけ告げて、牧野は詩織の横を抜けていった。牧野が去ったあと、詩織はしばらくその場に立ち尽くしていた。
 樹が成功させようとしていたのは分かっていた。けどそこまで大事な案件だったなんて、思ってもいなかった。だったら、ここで立ち止まっているわけにはいかない。詩織は胸の奥のざわめきを振り切るように現場に駆け出した。