君の声


「佐野さん、おはようございます。これ、今日の午後から役員会に持っていく東洋音響の最終決定稟議書です。承認印お願いします」
 翌朝。出社した樹のもとへ部下が慌ただしく駆け寄り書類を差し出した。昨日ほぼ決定した音響制作会社への正式承認書類。樹はいつもの飄々とした笑みを浮かべながらも、差し出された書類を指先で軽く押し返す。
「ちょっと待って。」
 空気が一瞬止まる。
「東洋音響も悪くないんだけど、今日もう一件だけ話を聞きたいところがある。」
「……え?」
「10時にアポは取ってある。」
「10時!?」
 周囲が一斉にざわついた。
「昨日の夜、めちゃくちゃ面白い提案書が来てさ」
 樹は笑う。でも目は笑っていなかった。
「このまま東洋音響で決めたら、俺、たぶん後悔する。」
 その場にいた数人が顔を見合わせる。
「だから一回だけ。信じて付き合って」
 短い沈黙。そして部下は観念したように息を吐いた。
「……分かりました。」
「ありがと。じゃあみんな九時半、第三会議室集合」
 鞄から資料を取り出して机に置く。表紙を見た部下が眉をひそめた。
「ヴォイス・パレット?」
「そ。あとで読んどいて。」
 軽く手を振って歩き出した樹の背中を一人が追った。
「――俺も行きます。」

 ◇
 
「普通、当日の朝に言いませんよ」
 休憩スペースで広瀬が呆れた顔をする。樹は缶コーヒーを取り出しながら肩をすくめた。
「そう?」
「みんな顔、固まってましたよ」
 樹は笑いながら昨夜の話を掻い摘んで説明する。広瀬は黙ったまま聞いていた。
「先輩がそこまで言うまら、相当なんでしょうね」
「提案書はな。」
 缶を口元まで運んで、少しだけ視線を遠くへ向ける。
「あとは、どれだけ本気で来るか」
 その横顔にいつもの軽さはなかった。広瀬は小さく笑う。
「先輩って、そういう時だけ頑固ですよね」
「なんだよそれ」
「褒めてます」

 ◇
 
 午前10時。第三会議室に現れた黒塚は、穏やかな笑みを浮かべていた。しかしプレゼンが始まると空気が変わった。話し方は終始落ち着いている。声を荒げることもない。それでも、言葉が刺さる。大手が提案した「安全で無難な設計」の盲点を、一つずつ静かに解体していく。他社を否定することなく。ただ企画の本質だけを見据えて。
「これは音響設備の話ではありません」
 会議室が静かになる。
「人が記憶を思い出す音の話です」
 樹は無意識に笑っていた。やっぱりだ。この人は分かっている。
 スライドが進む度に、後ろで資料をめくる音が増える。腕を組んでいた部下たちが前のめりになっていく。
「私たちは、皆様のこだわりにどこまでも並走します。」
 静かに頭を下げる。数秒の沈黙。そして誰かが小さく言った。
「……すご」
 樹はニヤッと笑う。
「でしょ?」
「俺、この案でいきたいです」「私も」
 次々に上がる声を片手で制し、部下を一人一人しっかりと見渡して満足げに笑った。
「よし、じゃあ納得の満場一致ってことで。黒塚社長、今回のプロジェクト、ぜひうちと組んでください。」
「ありがとうございます。ご期待に必ずお応えします。……次回のミーティングには、今回のプランを設計した、弊社最高のディレクターを同行させます。今後ともよろしくお願いいたします」
 樹と黒塚が強く握手を交わした。黒塚が退出した後、会議室は一気に慌ただしくなる。
「稟議書すぐ書き直して!」「企画書の差し替えも必要ですよね!?」「資料修正します!」
「――――みんな、ちょっと聞いて!」
 樹はざわめく部下に向かって声をかけた。
「まずは俺に時間をくれてありがとう。納得してくれて正直ホッとしてる。午後の会議までちょっと時間ないけどみんな頼める?」
 樹の言葉にそれぞれが力強く頷いた。それを確認した樹は表情を引き締めて言う。
「これからオフィスに戻ってそれぞれ、修正をお願いしたい。企画書は俺が差し替えるから――」
 それぞれに指示を出し、みんなが一斉に会議室を出ていく。
「先輩、すごいとこ見つけてきましたね」
 会議室から出て広瀬が樹に囁く。その目は先ほどまでとは打って変わって熱いものが宿っていた。
「だから言っただろ。広瀬も納得するよって。ここからだから、頼むぞ」
「任せてください。」
 広瀬の肩を叩いて樹は歩き出す。自身のデスクに戻ると企画書の差し替えに取り掛かった。