君の声

 その頃、詩織は自宅の机の前に座っていた。会議室での樹との会話が頭をよぎる。ナレーター変更の説明。あの収録の日からそんなに経っていないのに、やけに遠い出来事のように感じる。
 バッグの中には持ち帰った台本が、開く気になれず入ったままだった。代わりにスマートフォンを何度も見てしまう。当然連絡はない。
 あれは仕事だ。
 ただの収録で、ただの判断で。
(私が、選ばれただけ)
 そう思おうとしてうまくいかない。ふと耳の奥にあの声が蘇る。
『白石さん。いつも通りでいい』
 たったそれだけで驚くほど落ち着いた自分がいた。あれは本当に”仕事の言葉”だったのだろうか。それとも。そう考えかけて首を振る。
「違う違う……」
 呟いて立ちあがる。キッチンで水を飲んでも、落ち着かない。テレビをつけても内容が入ってこない。結局机の前に戻ってくる。
 その時、スマートフォンが震えた。心臓が一瞬だけ跳ねる。
 画面に表示された名前は——佐野樹。
 呼吸が止まる。すぐには出られなかった。数秒遅れて通話ボタンを押す。
「……はい」
『今、大丈夫だった?』
 いつもと変わらない声。でも、少しだけ違って聞こえた。詩織は頷く。
「大丈夫です」
 短い沈黙。樹が続ける。
『ナレーター変更の件、問題は全部こっちで処理した』
「……処理、ですか」
『うん。説明も終わった。あとは進められる』
 その言葉に詩織は息を詰める。
 進められる。つまり——まだ、ここにいていいということだ。
「……すみません」
 気づけばそう言っていた。すぐに樹の声が重なる。
『謝ることじゃない』
 短く強い否定。詩織は言葉を失う。少しして樹が続ける。
『むしろ、あの声で良かったと思っている』
 その一言で、胸の奥が静かに揺れた。嬉しいのか、怖いのか、自分でもわからない。
「……本当に、いいんですか」
 小さく零れるように出た声。樹は間を置いてから答えた。
『俺が決めたことだ』
 それだけだった。でもそれ以上いらなかった。詩織はゆっくりと息を吐く。
「……わかりました」
 通話が終わる。静かになった部屋でスマートフォンを胸の前に下ろす。さっきまでの不安が完全に消えたわけではない。
 それでも、「俺が決めたことだ」という樹の声だけは、いつまでも耳に残っていた。