君の声

 会議室のホワイトボードにはイベント当日のスケジュールや導線図がびっしり書き込まれていた。イベント本番を目前に控え、会議室の空気も緊張感が漂っている。樹は詩織と進行と音響のデモストレーション内容を確認していた。その時、不意に樹のポケットのスマートフォンが震える。
 画面を見ると、制作部の名前が表示されていた。樹の表情がわずかに変わる。
「はい、佐野です」
『佐野さん、今大丈夫ですか。ちょっと急ぎで確認なんですが——』
 通話口の声は、少し硬いものだった。樹は一度だけ詩織の方を見たあと、背を向けるように少し離れた。詩織はその背中を見つめた。樹はそのまま、通話に集中していた。
「はい」
『今回ナレーションの件なんですが、スポンサー側から確認が入りまして……』
 その言葉に樹の目がわずかに細くなる。
『当初予定していた宮部さんから、別の方へ変更になっていますよね?その経緯について、正式な説明を求められていまして』
 樹は一瞬だけ言葉を止めた。視線の先では、詩織がカーソルを動かしている。
「……事情は説明できます。収録当日にナレーターが体調不良で参加できなかったため、急遽代役を立てました。」
『そこまでは伺っています。ただ問題はその後です。』
「……はい」
『代役として収録した音源を正式採用することについて、スポンサー側へ確認がありませんでしたよね』
「俺の判断です」
 短く認める。
『契約上、ナレーションの変更には事前確認が必要になっています。スポンサーとしては、事前合意のない変更は困るという立場です。場合によっては差し替えも含めて——』
 そこまで聞いた瞬間、樹は目を閉じた。数日前なら、迷わず「分かりました」と言っていたかもしれない。安全な判断をして、誰も傷つかないようにするのが正解だった。
 でも。
 あの声を聞いたあとでは、それはもう選べなかった。
「……責任は、すべてこちらで取ります」
 はっきりと言い切る。
『……承知しました。詳細は改めて資料でご提出ください』
 通話が切れる。通話を終えたあとも樹はしばらくスマートフォンを握ったまま動かなかった。胸の奥に残るのは、焦りでも後悔でもない。
「……佐野さん」
 詩織の声が、遠慮がちに届く。振り返ると、彼女は少し不安そうに立っていた。
「私のせい、ですよね」
 樹はすぐに首を横に振った。
「違う」
 短く、強く。
「君のせいじゃない」
 詩織は唇をかむ。樹は一歩だけ近づいた。
「俺が選んだ」