君の声

 スタジオの外に出ると、さっきまでの密閉された空気とは違う、少し冷たい風が頬を掠めた。自販機の前で、樹は缶を二つ取り出す。
「これでいい?」
「……ありがとうございます」
 詩織は受け取った緑茶を両手で包み、軽く口をつけた。ひんやりとした液体が喉を通ると、ようやく息が落ち着く。隣で樹も缶コーヒーを開けた。プシュ、と小さな音だけがやけに大きく響く。
 しばらく、二人とも何も言わなかった。通り過ぎる車の音と、遠くの信号機の電子音だけが間を埋めていく。
「……終わりましたね」
 詩織がぽつりと呟いた。
「うん」
 樹は短く頷く。
「ちゃんと、形になった」
 その言葉に、詩織は小さく笑った。
「私、正直まだ実感ないです」
「すぐ来るよ。あとで映像と一緒に流れた時に」
 樹はわずかに視線を上げた。
「その時、自分でも驚くと思う」
 詩織は少し黙ってから、缶を見つめたまま言う。
「……仮じゃなくて、良かったです」
 その言葉に、樹の動きが一瞬だけ止まった。けれどすぐに、何事もなかったようにコーヒーを一口飲む。
「そうだな」
 短い返事だった。それ以上を続けかけた、その時。広瀬から終わったと連絡が入る。
「広瀬、終わったって。戻ろうか。」
「はい」
 二人は並んでスタジオへ戻る。最終チェックを終え、機材の電源を落とし、ケーブルをまとめていく。さっきまでの収録の熱だけが、まだ空間の隅に残っているようだった。
 詩織とはスタジオで別れ、樹はオフィスに向かう。自席で書類仕事を終わらせた後、今日収録したデータをクラウドに保存してパソコンを閉じた。
    
 その夜。
 店の奥、少し騒がしい居酒屋の隅だった。グラスの氷が溶ける音がやけに耳につく。
「で、今日の現場はどうだったわけ?」
 向かいに座る京平の声に樹は一拍遅れて肩をすくめた。
「どうって、まぁ普通に成功」
「の割にはそんな顔してないけど」
 即座に拓馬に突っ込まれる。樹は笑って誤魔化そうとしたが、この二人相手にうまくいくわけはなかった。グラスに手を伸ばし、酒を一口含む。さっきまで隣にいた横顔が浮かぶ。
「なぁ」
「ん?」
 言葉が無意識に零れた。グラスを傾けながら京平がこちらを見る。
「詩織とさ、今日ちょっと二人で外にいたんだけど」
 二人は黙って樹の言葉に耳を傾ける。
「ただ、立ってただけなんだけどさ」
 言葉が少しずつ零れていく。
「……あの時間嫌じゃなかったんだよ。気まずいとかそんなのもなくて」
 カラン、とグラスの氷が揺れる。
「それで?」
「懐かしくてさ」
 鼻の奥が少しツンとする。
「だから?」
 拓馬が素っ気なく促す。その一言が妙に優しく聞こえるのはなぜだろうか。
「やっぱり……好き、なんだなって」
 零した声は少し震えた。
「元カノだからとか、そういうことじゃなくて。今の詩織が好きだって」
 真っ直ぐ俺を見つめる瞳。無邪気に笑う顔。時折見せる真剣な横顔。
「今更だろ。」
 拓馬の言葉に苦笑する。
「相棒に徹するって、決めたはずなのになぁ……俺、今までの仕事で一番キツイかもしんねぇ」
 グラスの水滴を見つめながら、樹は呟いた。
 
 ◇