それから数週間が過ぎた。樹の生活はあの飲み会の前と何も変わらなかった。先に連絡先を交換していた何人かから連絡はあったものの詩織からの連絡は当然何もない。再会したことすらなかったかのように日々は過ぎていった。
「佐野、ちょっと。」
デスクの仕切りからひょいと顔を出した上司の中原が手招きする。思い当たる節もないまま樹は席を立った。
「実は今、こういう話が上層部で出ててさ。お前、やってみない?」
中原は数枚の資料を軽く叩きながら言う。それは会社の命運を左右しかねない、他社との大型タイアップ企画。その統括チーフプロデューサーのポジションだった。
「俺ですか?」
「そう。今のお前なら任せられると思うから、上には押しておいた」
悪びれる様子もなく、中原は口元を緩める。
信頼されている嬉しさが半分。そしてもう半分は、この案件がどれほど泥を被る可能性を抱えているのか、容易に想像できてしまったことへの苦笑いだった。
「いや、それ選択肢ないじゃないですか」
樹は両手を上げて降参のポーズを取る。いつも通りのお調子者の部下を演じながら、その足元ではローファーのつま先が静かに床を叩いていた。胸の奥が、冷たく、熱く脈打ち始める。
――チャンスが来たら、いつでも引きずり出してやるつもりだった。
「……でも実は、俺もずっと温めてた企画があるんです。これ、抱き合わせでやらせてもらえるなら、喜んで泥を被りますよ」
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を数回タップして中原に向ける。
表示されていたのは、入社当時から密かに書き溜めていた未提出のプロット。かつて、ある少女と描いた大切な記憶の欠片。
画面を覗き込んだ中原が、一瞬だけ目を見開く。
「へぇ……面白そうじゃん。来週上層部にプレゼンがある。企画書、ちゃんとまとめとけよ」
「了解です。寝ないで仕上げます」
笑って答える樹の横顔からは、先ほどまでの軽薄さが綺麗に消えていた。
翌週行われた上層部へのプレゼンは樹が拍子抜けするほどあっさり通った。もちろん簡単ではなかった。鋭い質問も飛んだし、想定外の指摘もあった。それでも覚悟していたほどの抵抗はなく、会議室を出た時、樹は密に胸を撫で下ろしていた。正式に企画が動き出してからは、忙しさが一気に加速した。チームで企画書を再構築し、細かな導線や演出を詰めていく。
今回のイベントのコンセプトは——
『記憶の海——あの日のワクワクを、もう一度』
子どもの頃、水族館で目を輝かせた瞬間。
親に手を引かれて歩いた少し薄暗い通路。
友達とはしゃいで笑い合った時間。
誰かと並んで見上げた、青く揺れる水槽。
そんな小さな記憶の欠片たちを、光と音で呼び起こす夜。
そして帰る頃には、隣にいる相手へ自然と思ってしまう。
——また、大切な人と来たい。
その中でも特に重要視されていたのが音響演出だった。会議室には誰もが知る大手音響制作会社の担当者たちが並び、洗練されたスライドを映し出しながら次々にプレゼンを行っていた。
「最新立体音響システムを採用しています」
「エリアごとの音響設計も完璧です。」
「SNS拡散も考慮した演出設計です」
樹はいつもの人当たりの良い笑顔を浮かべながら頷く。
「へぇ~、なるほどね。さすが大手さん。綺麗にまとまってるなぁ」
調子よく相槌を打ちながらも、その視線は資料の上を滑っていた。数時間に及ぶコンペが終わる頃には、会議室の空気はほぼ決まっていた。結局、一番実績のある大手で進める。そんな流れだった。最終決定は明日。判を押すだけになった終業後、オフィスには樹だけが残っていた。机に広げた資料を見つめ、顎に手を当てる。もう一度、大手制作会社の提案書をめくった。数字も実績も完璧だった。減点するところなんて一つもない。ただ――。
「……綺麗すぎるんだよな。」
資料を閉じる。椅子にもたれ、天井を見上げた。
「なんか違う」
この企画で届けたいのは、ただの綺麗な音じゃない。人の記憶に触れる音だ。子供の頃に感じたワクワク。暗い水槽の前で立ち止まった時の少しの怖さ。誰かと一緒に笑った瞬間。そういうものを、気づかないうちに思い出させるための音。なのに提案書から聞こえてくるのは、性能のいいスピーカーの音だけだった。
それに担当者たちの態度の端々から、自分が若手だからと少し侮っている空気も感じていた。大博打と言われるこの案件で、妥協なんてしていいのか。そう考え始めると、どうしても判を押す気にはなれなかった。
その時だった。画面の右下にメール通知が浮かぶ。時刻は20時15分。こんな時間に、代表アドレスではなく、自分宛てへの直接メール。
件名にはこう表示されていた。
【新規ご提案:株式会社ヴォイス・パレット 黒塚】。
「ヴォイス・パレット……?」
聞いたことのない会社名だった。気分転換程度のつもりでメールを開く。冷やかしなら閉じればいい。
しかしメールの本文を二、三行読んだところで、樹のスクロールする手がピタッと止まる。そこにあったのは、型通りの営業文ではなかった。黒塚という男の剥き出しの熱量。そして——企画の核心を、恐ろしいほど正確に理解している文章だった。
『突然のご連絡失礼致します。企画書を拝見しました。素晴らしい企画です。
ただ、大手他社が提案するシステムでは、この企画の本当の価値は確実に実現しない。これは音響設備の話じゃない。人の記憶を呼び起こすための音の話です。懐かしいという感情は、映像より先に音が触れる。うちならそれができます。』
「……何これ。」
樹の口元が自然と上がった。
「言うじゃん」
添付された提案資料を開く。ページをめくるたび、鼓動が速くなった。
そこには周囲から「こだわりすぎ」と却下されかけていた音声ディレクションの重要性が、圧倒的な熱量とロジックで肯定されていた。
読んでいるだけで、自分の頭の中で鳴っていた理想の音が空間いっぱいに広がる。鳥肌が立った。
「……これだ。」
いつもの軽い笑顔は消えていた。机の上の資料を乱雑に片付け、印を押すはずだった稟議書をデスクの引き出しに放り込む。
画面の署名欄を見つめる。
『代表取締役 黒塚』
数秒後にはもうスマートフォンを耳に当てていた。夜のオフィスに電子音が静かに響く。――そしてその音が止まった。
「夜分に失礼します。株式会社エコー・エージェンシーの佐野と申します」
静まり返ったオフィスに、少し熱を帯びた樹の声が響いた。
