君の声

 数日後。
 樹は都内のレコーディングスタジオのディレクションルームで台本のチェックをしていた。ガラス越しに見える収録ブースはまだ空のまま。その隣では詩織がヘッドホンを片手に機材の調整を進めている。さらに奥では制作進行の広瀬が収録スケジュールを確認していた。
 今日はイベント本番で流すナレーションの収録日だった。正式な担当はプロナレーターの宮部。スポンサー向け資料にも名前が載っている、実績のある人物だ。
 もっとも、音声自体は樹も一度聞いていた。
 正確には、宮部の声ではない。数日前、映像のタイミング確認用として入れた仮ナレーションだ。
 人手が空いていなかったこともあり、「私でいいなら読みますよ」と軽い調子でブースへ入ったのが詩織だった。
『——未来は、いつだって小さな一歩から始まる』
 特別に作った声ではなかった。飾り気もない。
 それでも、不思議と耳に残った。必要以上に感情を乗せないのに、言葉だけが自然と胸に落ちてくる。
 収録後、樹は思わず口にしていた。
「……思ったより良かったな」
『思ったよりってなんですか』
 笑いながら抗議する詩織に、適当に誤魔化したのを覚えている。
 ——本当に、あの時は思っていた。
 こっちの方がいいんじゃないか、と。
 だが、それは口にできなかった。
 スポンサーとの契約もある。外部との調整も終わっている。何より、その判断が私情ではないと言い切れる自信がなかった。
 ただ、詩織の声を聞き慣れているから、そう思うだけじゃないか。
 チーフプロデューサーとして、そんな曖昧な感覚で決めるわけにはいかなかった。
 時刻はまもなく10時。突然、樹のスマホが震えた。
「はい、佐野です」
『あ、佐野さん?宮部です』
「お世話になっております。本日はよろしくお願いします。どうされました?」
 相手はナレーションを担当する宮部だった。チーフプロデューサーである樹が、収録関係の最終窓口も兼ねているため、こうした連絡は直接入ることが多い。詩織は気にする様子を見せながらも、作業の手は止めていない。
『実は、ちょっと声の調子がおかしくてね。風邪とかじゃないと思うんだけど、朝からあまり声が出なくて……』
 電話の向こうから聞こえてきたのは、掠れた、今にも消え入りそうな声だった。いつもの凛とした聞き取りやすい声とは、まるで別人のようだ。
「……え?」
 樹は思わず、持っていたボールペンを机に落とした。カラン、と静かなディレクションルームに乾いた音が響く。その音に反応して、詩織が作業の手を止め、怪訝そうな顔で振り返った。
『本当に申し訳ありません。ギリギリまで喉を温めたり、吸入器を使ったりしてみたんですが、掠れるばかりで……。今日の収録、この状態ではとてもプロとしてお受けできません。スケジュールをずらしていただくか、どうしても今日でなければ代役を……』
 宮部の沈痛な声が途切れる。
 イベント当日に流すナレーションだ。編集や音声調整のスケジュールを考えると、もう余裕はほとんどない。今日中に録り終えなければ、本番の演出全体に狂いが生じる。
「わかりました、宮部さん。まずは無理をなさらず、病院へ行ってください。こちらで急ぎ対応を検討します」
 電話を切ると同時に、詩織がヘッドホンをデスクに置いて駆け寄ってきた。
「佐野さん、どうかしました? 」
「……声が出ないんだって。今朝起きたら、急に」
 樹の言葉に、詩織の顔から血の気が引いていくのがわかった。
「え、まじですか」
 スケジュール表をみていた広瀬も顔を上げる。
「それって、かなりまずくないですか。今日録れなかったら編集、間に合わなくなりますよ」
 広瀬の声が重く落ちる。誰も言葉を続けなかった。
 沈黙を破ったのは詩織だった。
「仮入れ、します?」
 樹が顔を上げる。
「仮入れ?」
「編集作業だけ先に進めるんです。タイミング調整もできますし、宮部さんが回復したら差し替えればいいし……完全に止まるよりはいいんじゃないでしょうか」
 詩織は慎重に言葉を選んでいた。
 その瞬間、樹の脳裏に数日前の音声が蘇った。
『——未来はいつだって小さな一歩から始まる』
 あの声。自然に耳に入り、言葉だけが真っ直ぐ残る、不思議な声。
 ——こっちの方がいい。
 あの時、確かにそう思った。けれどその考えを自分自身で否定した。私情じゃないのか、と。詩織だからそう聞こえるんじゃないか、と。
 樹は目を閉じた。
 スポンサー。契約。外部調整。
 数日前、自分で却下した考え。
 ——でも、それ以上に。
 耳に残っていたのは、あの声だった。樹はゆっくり顔を上げた。
「……いや。仮じゃない」
「え?」
 詩織が目を丸くする。広瀬も怪訝そうに樹を見る。
「正式に録る。ナレーターは……白石さんに頼む。」
「!?」
「ちょっ、先輩本気ですか!?」
 広瀬が慌てた声を上げる。
「スポンサーへの説明もあります。契約だって」
「分かってる」
 樹は広瀬を遮った。
「説明は全部俺がやる」
 自分でも不思議だった。数日前は私情じゃないかと踏み込めなかった。
 でも今は違う。
 あの声を聞いた時に感じたものを嘘だとは思えなかった。
 樹は詩織を見る。
「やれる?」
 一瞬だけ詩織の目が見開かれる。
「私、ですか」
「そうだ。今は君以上の適任がいない」
「待ってください、代役なんてそんな、無理です!」
 今度は詩織が慌てた声を上げた。広瀬も「さすがにそれは」と困惑している。
「代役を探している余裕はないし、リスケも無理だ。」
 樹は静かに続ける。
「仮入れの君の声を聞いた時、いいと思った。大丈夫、君ならやれる。」
 真っ直ぐ詩織を見つめて言い切る。一瞬迷った表情を浮かべた後、詩織は深く息を吐く。
(なんでだろう。この人言われると、安心する)
「……無茶言いますね」
 そう言いながら、ヘッドホンを手に取る。
「わかりました。やります」
 詩織は振り返り、ガラス越しの収録ブースへ向かった。今まで空だったブースに初めて人が入る。広瀬も覚悟を決めたように、準備を始めた。
 樹は、ガラス越しのその背中から目が離せなかった。ガラス越しのブースで詩織が深呼吸を一つした。
 樹は知らず知らずのうちに、握った拳へ力を込めていた。
 あの時、自分が感じたものが間違いじゃないことを——今はただ、信じたかった。