夕方、オフィスは少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
樹が自席に戻ると、広瀬がニヤニヤしながらデスクのパーテーションから顔を覗かせてきた。
「先輩、白石さんから『調整終わったので、一度実機で音を合わせて聴いてほしい』って伝言です。会議室、もう押さえてあるみたいですよ」
「……お前、なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「いやー、お互い妥協ナシの職人同士って感じで、見てて熱いなと思いまして」
広瀬の軽口を「うるさい」と一蹴しながらも、樹はノートPCとイヤホンを手に立ち上がった。
指定された会議室のドアを軽くノックして開けると、詩織はすでに機材をセッティングし、真剣な表情で画面に向き合っていた。
「あ、佐野さん。お疲れ様です」
「お疲れ。早いね、もうできたの?」
「はい! 佐野さんの台本を見たら、もうアイデアが止まらなくなっちゃって」
そう言って笑う彼女の瞳は、水族館の青い光の中で見たものと同じ、無邪気で、まっすぐな輝きを放っていた。
「じゃあ、早速聴いてもらえますか? 演出意図の『1.5秒』、ここに命を懸けました」
「ハードル上げるね。じゃあ、聴かせて」
詩織が再生ボタンを押す。スピーカーから流れてきたのは、午前中よりもさらに深みを増したイントロだった。そして、樹が緻密に計算して削ぎ落とした言葉のナレーションが重なる。映像と、声と、音。三つの要素が完全に調和し、一つの世界を形作っていく。
そして——例の「間」が訪れた。
音がスッと消え、静寂が走る。たった1.5秒。けれどその静寂には、直前までのBGMの残響が静かに残っていた。やがて優しい旋律が動き出す。
再生が終わっても、樹はしばらく言葉が出なかった。
「……どう、でしょうか」
詩織が、少し不安そうに樹の顔を覗き込んでくる。その距離が、いつもより少しだけ近く感じられて、樹は我に返った。
「……完璧。文句のつけようがない。俺が頭の中で鳴らしたかった音が、そのまま形になってる」
樹がそう告げると、詩織の顔が一気に明るくなった。
「良かった……! 佐野さんにそう言ってもらえるのが、一番安心します」
胸をなでおろす彼女を見て、樹の心臓がまた不規則な音を刻み始める。
「佐野さん、やっぱり私、不思議なんです」
詩織は機材を片付けながら、ぽつりと呟いた。
「え?」
「佐野さんの作るテキストって、なんて言うか……私が『ここ、少し呼吸したいな』って思う場所に、自然に間があるんです。」
ケーブルを束ねる手を止め、少し首を傾げる。
「初めて組んだはずなのに、不思議ですよね。なんか……すごく仕事がしやすいんです」
悪気のない一言だった。
けれど、その言葉は静かに樹の胸へ落ちた。
知っているどころじゃない。
好きなテンポも、音を置く癖も、迷った時に最後に選ぶ方まで。そんなものは、嫌というほど知っている。喉元まで込み上げた言葉を押し込み、樹は小さく笑った。
「相性がいいんじゃないか」
「相性、ですか?」
「仕事の、な」
そう付け加えると、詩織はふっと笑った。
「そっか。それなら嬉しいです。」
その笑顔を見て、樹は視線を落とした。
彼女の記憶に、自分はいない。
それでも、こうして隣で同じ音を作っていると、失われたはずの何かが、まだどこかに残っている気がしてしまうのだった。
「イベント、絶対に成功させような。」
「はい! よろしくお願いします、チーフ」
樹が自席に戻ると、広瀬がニヤニヤしながらデスクのパーテーションから顔を覗かせてきた。
「先輩、白石さんから『調整終わったので、一度実機で音を合わせて聴いてほしい』って伝言です。会議室、もう押さえてあるみたいですよ」
「……お前、なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「いやー、お互い妥協ナシの職人同士って感じで、見てて熱いなと思いまして」
広瀬の軽口を「うるさい」と一蹴しながらも、樹はノートPCとイヤホンを手に立ち上がった。
指定された会議室のドアを軽くノックして開けると、詩織はすでに機材をセッティングし、真剣な表情で画面に向き合っていた。
「あ、佐野さん。お疲れ様です」
「お疲れ。早いね、もうできたの?」
「はい! 佐野さんの台本を見たら、もうアイデアが止まらなくなっちゃって」
そう言って笑う彼女の瞳は、水族館の青い光の中で見たものと同じ、無邪気で、まっすぐな輝きを放っていた。
「じゃあ、早速聴いてもらえますか? 演出意図の『1.5秒』、ここに命を懸けました」
「ハードル上げるね。じゃあ、聴かせて」
詩織が再生ボタンを押す。スピーカーから流れてきたのは、午前中よりもさらに深みを増したイントロだった。そして、樹が緻密に計算して削ぎ落とした言葉のナレーションが重なる。映像と、声と、音。三つの要素が完全に調和し、一つの世界を形作っていく。
そして——例の「間」が訪れた。
音がスッと消え、静寂が走る。たった1.5秒。けれどその静寂には、直前までのBGMの残響が静かに残っていた。やがて優しい旋律が動き出す。
再生が終わっても、樹はしばらく言葉が出なかった。
「……どう、でしょうか」
詩織が、少し不安そうに樹の顔を覗き込んでくる。その距離が、いつもより少しだけ近く感じられて、樹は我に返った。
「……完璧。文句のつけようがない。俺が頭の中で鳴らしたかった音が、そのまま形になってる」
樹がそう告げると、詩織の顔が一気に明るくなった。
「良かった……! 佐野さんにそう言ってもらえるのが、一番安心します」
胸をなでおろす彼女を見て、樹の心臓がまた不規則な音を刻み始める。
「佐野さん、やっぱり私、不思議なんです」
詩織は機材を片付けながら、ぽつりと呟いた。
「え?」
「佐野さんの作るテキストって、なんて言うか……私が『ここ、少し呼吸したいな』って思う場所に、自然に間があるんです。」
ケーブルを束ねる手を止め、少し首を傾げる。
「初めて組んだはずなのに、不思議ですよね。なんか……すごく仕事がしやすいんです」
悪気のない一言だった。
けれど、その言葉は静かに樹の胸へ落ちた。
知っているどころじゃない。
好きなテンポも、音を置く癖も、迷った時に最後に選ぶ方まで。そんなものは、嫌というほど知っている。喉元まで込み上げた言葉を押し込み、樹は小さく笑った。
「相性がいいんじゃないか」
「相性、ですか?」
「仕事の、な」
そう付け加えると、詩織はふっと笑った。
「そっか。それなら嬉しいです。」
その笑顔を見て、樹は視線を落とした。
彼女の記憶に、自分はいない。
それでも、こうして隣で同じ音を作っていると、失われたはずの何かが、まだどこかに残っている気がしてしまうのだった。
「イベント、絶対に成功させような。」
「はい! よろしくお願いします、チーフ」
