君の声

 普段の仕事中のきっちりした姿とは違い、私服に身を包んだ詩織は新鮮だった。それは詩織にとっても同じだったようで、彼女は少し照れくさそうに樹の服に視線を落とした。
「佐野さんの私服、新鮮です。一瞬、格好いいなと思って見惚れちゃいました」
「……え?」
「あ、冗談です! 雰囲気が違ったのでびっくりして」
 悪戯っぽく笑う詩織に、樹の心臓が大きく跳ねる。その無邪気な言葉一つで、朝の決意が揺らぎそうになる。
 ——違うだろ。
 心の中で小さく自分に苦笑する。
 思い出していないなら、それが今の詩織なんだ。
 俺が勝手に昔を重ねるのは違う。
「……ありがとう」
 照れ隠しに笑って、それだけ返した。
「せっかくですし、良かったらこの後一緒に回りませんか? 企画の参考になる発見があるかもしれないですし」
 詩織からの思いがけない誘いに、樹は一瞬戸惑う。彼女の記憶の中に自分はいない。それでも、断ることは出来なかった。
「……お望みなら、新鮮な佐野さんで付き合うよ。じゃあ、まずはあっちのクラゲのエリアから行ってみようか」
 二人はゆっくり歩き出す。
「このクラゲの水槽、次のイベントの照明演出の参考になりそうだな」
「確かに。ただ綺麗に見せるだけじゃなくて、影の作り方が上手いですね。ここに合わせるならどんな音かな」
 二人並んで水槽を見上げる。仕事の目線になってしまうのはお互い様で、思わず顔を見合わせて小さく笑う。
 淡い青に照らされたクラゲたちは、ゆっくり呼吸するように浮かび上がっては沈んでいく。揺れる光が水面を伝い、足元まで淡く滲んでいた。
「なんか、ずっと見ていられますね」
 詩織が小さく呟く。
「時間、忘れるよな」
 言葉を返しながら、樹は隣を見る。クラゲを見つめる詩織の横顔が、水槽の青い光にぼんやりと浮かんでいる。真剣なのに、どこか無防備な表情。その姿が、胸の奥に静かに触れた。
「……佐野さん?」
「いや、なんでもない」
 詩織の記憶の中に、自分との過去はない。けれど、こうして同じものを見て、同じように笑い合える「今」がある。朝、玄関を開けた時の決意が、樹の胸の中で静かに、より確かなものに変わっていった。
 館内を回り終え、地上へ出ると、お腹が空いていることに気づいた。
「この近くに海が見えるいいカフェがあるんだ。もし良かったら、遅めの昼飯でもどう?」
「本当ですか? ぜひ行きたいです!」
 水族館を出て海沿いにあるカフェへ向かう。テラス席で昼食を摂りながら、二人で休みの日の過ごし方や最近ハマっている事を話した。
「佐野さんといると、なんだかすごく話しやすいです」
 詩織は無邪気に笑う。
「光栄だな」
 樹は笑って返した。
 店を出る頃には、海風が少しだけ涼しくなり始めていた。
「急ぎの用事がないなら、もう少しだけドライブに付き合ってくれないか。見せたい景色があるんだ」
「はい、喜んで」
 助手席に詩織を乗せ、車を走らせる。車窓の空が、青から柔らかな茜色へと移り変わっていく。
 樹は隣にいる詩織へ、静かに視線を向けた。
(……焦らなくていいか)
 思い出してくれなくてもいい。
 今こうして隣で笑ってくれているなら、それだけで十分だ。
 また少しずつ、ちゃんと隣に並べばいい。