恵比寿の裏路地にあるその店は、看板すら出ていなかった。コンクリートの壁に小さなインターホンがぽつんとあるだけ。
一歩中に入れば、外観からは想像もつかない、洗練された和モダンの個室が広がっている。
佐野樹はさっきから、そのお洒落な空間の熱気に乗っかって全力で場を盛り上げていた。
「みんなお酒足りてる? 次、何頼む? カクテルも色々あるみたいだよ」
手際よく卓上の空いたグラスをまとめ、壁の呼び出しボタンを押す。
男側の幹事である友人をアシストしつつ、女の子たちに「この店、居心地いいね」と楽しんでもらえるよう、樹は終始笑顔で会話のパスを回し続けていた。友人に頼まれて気まぐれで参加したこの会に何かを求めるつもりはなかった。ただ友人のアシストに徹する、それだけでいいと思っていた。あとは楽しく酒でも飲めればいい、と。
我ながら、いい働きをしていると思う。
話が弾む部屋をそっと見渡してそんなことを考えていた。その時、個室の木目の引き戸がスッと外側へとスライドした。 振り返った樹のグラスを持つ手が、わずかに震える。
「ごめんなさい! 入り口がちょっと分からなくて、迷っちゃいました……」
少し息を切らせて入ってきたのは、薄手のコートを羽織った女性だった。
防音性の高い個室のドアが開いたことで、店内に流れるジャズのBGMがかすかに大きく聞こえる。
彼女が「初めまして、白石です」と恐縮しながら、外のひんやりした夜の空気をまとったまま靴を脱ぐそのお淑やかな所作を、樹はグラスを持ったまま、柄にもなく呆然と見つめていた。
何年も、何千回も、夢の中で繰り返したその声。思わず零れそうになる名前を飲み込んで、樹は必死に初対面の顔を作る。
「……お疲れ様! ちょうど今、盛り上がってたところだよ」
少し高めの明るいトーンで場を繋ぐ。でも、心臓の音は他の人に聞こえそうなくらい、うるさく鳴っている。
「そこ空いてるから座って!」
友人の声に促され、彼女がゆっくりとこちらへ歩いてくる。樹のすぐ隣、最後の空席へ。
彼女が丁寧にコートを畳み、樹の隣に腰を下ろした瞬間、ふわりと上品なシャンプーのような匂いが鼻腔をくすぐった。
「遅れちゃってごめんなさい。仕事が長引いちゃって……」
「大丈夫だよ。ここ分かりづらかったよね?」
メニューを彼女に差し出しながらそっと伺う。雰囲気は少し大人びているが樹は確かに彼女に覚えがあった。彼女の笑い声が記憶の中から蘇ってくる。
(やっぱり、似てる)
「これにします」と甘めのサワーを希望する彼女からメニューを受け取り再度呼び出しボタンを押す。
「じゃあ全員そろったところで改めて自己紹介しちゃおうか!」
少し酔いの回った友人の声で各々が順番に自己紹介を始める。隣に座る彼女は一人ひとりの挨拶に丁寧に拍手をしている。樹は場を盛り上げつつその様子を横目で見ていた。やがて彼女の番になり緊張しながら立ちあがった彼女は言う。
「白石詩織です。今日は遅れちゃってごめんなさい。」
小さくお辞儀をする。
その名前に耳の奥で再生される声。
――樹くん。
自分を呼ぶ彼女の声を、樹ははっきりと覚えている。高校時代から付き合っていた、かつての恋人だった。ただどこかに違和感も覚えていた。
そして詩織の自己紹介が終わり、樹の番になる。平常を装いながら立ち上がると自己紹介をした。
「佐野樹です。今日は楽しみましょう!」
隣からの視線がどこか気恥ずかしかった。
「佐野さん、っていうんですね。なんだか、すごくお話ししやすい方で安心しました」
座った樹に詩織が声をかける。彼女の瞳には、少しの偽りも、隠し事もない。
本当に、自分のことを知らない初対面の男性として見ている。
その真っ直ぐな視線が樹にとってはどんな拒絶の言葉よりも胸に刺さる。
詩織は自分を忘れてしまったのだろうか。樹は彼女の言葉に少し迷って返した。
「そう?そう言ってもらえて嬉しいな」
戸惑いを見せない様に笑顔を浮かべる。
彼女が俺と初対面のふりをするのなら、俺もそれに合わせようと決めた。
それからは終始和やかに進んだ。お酒も回り二時間ほどが経過したところでお開きになる。会計を済ませ、出口に向かうとそこには詩織が立っていた。
「あれ、白石さん待っていてくれたの?」
「全部お任せしちゃって悪いなと思って。」
「気にしなくていいのに。」
詩織と樹が言葉を交わしながら店を出ると友人たちが二次会への参加を募っていた。
「樹、お前二次会くるだろう?」
「んー悪いけど、明日早いんだわ。今日は遠慮しとく!」
「なんだよー!つまんね!」
ヤジが飛ぶ。それに悪い、と返しながら樹は詩織をちらりと見る。彼女はどうするのだろうか。
「詩織は?どうする?」見抜かれたのか女性側の参加者が詩織に声をかける。詩織は困ったような笑顔を浮かべながら「私も今日は帰るね」と告げた。樹は内心ほっとしながら声をかける。
「じゃあ俺、送ってくよ」
「え?でも悪いよ」
「こんな夜遅くに女の子一人じゃ危ないでしょ。」
自然に誘えたと思った。初対面のふりならそれでいい。それでももう少し一緒にいたいと思っていた。
二次会に向かう人、帰路に着く人、それぞれを見送り、「じゃあ行こうか」と二人は並んで歩き出した。取り留めのない話をしながら夜の街を歩いた。
「私、実は大学の時、事故にあったんですよね。」
何気ない会話の中で詩織がぽつりと零した言葉。事故に遭ったなんて、樹は知らなかった。
「本当?元気そうだけど……」
「そんな大げさなものじゃないですけどね。幸い怪我も一カ月くらいの入院で済みましたし。ただちょっと記憶がないんです」
「記憶がない?」
「はい。事故に遭ったことは覚えてるんですけど、その前の。なんだか大切な記憶がぽっかりないような、そんな感覚がずっとあるんです。」
「おかしいですよね」
そう言って詩織は笑った。その笑顔はどこか寂し気で、樹の胸をうつ。
「思い出したいの?」
自然と問いかけていた。
「そうですね……そもそも本当に記憶がないのかも曖昧なので。」
さらに詩織は笑う。
「すみません。今日初めて会った人にこんな話して。なんか佐野さんには言いたくなっちゃいました」
”初めて会った人” 確かに詩織はそう言った。その瞳は最初に会ったとき同じでまっすぐ樹を捉えている。
――どうして、なぜ。
出かかった言葉を樹は飲み込む。
「……話してくれてありがとう」
それが樹の精一杯だった。
「いえ、聞いてくださってありがとうございます……。もうここで大丈夫です。」
気が付けば駅まで来ていた。樹はかける言葉を探す。
「今日はありがとうございました。楽しかったです。」
「楽しんでくれたならよかった。」
一言二言、言葉を交わして詩織は改札の奥へと消えていった。その後ろ姿を見送り、樹は詩織の言葉を思い出していた。
『記憶がないんです。』
もしかして、自分のこともその忘れてしまった記憶の一部なのかもしれない。そうだとすれば「初めて」を繰り返す理由にも納得がいく。だけどそれは憶測に過ぎなかった。
「連絡先交換すればよかった……」
過去に触れようかどうしようかと迷っている間に聞きそびれてしまった。けど、これでよかったのかもしれないとも思う。忘れてしまったにしろ、そうでないにしろ、もう会わないほうがいいのかもしれない。樹はそう思い直して来た道を戻っていく。胸の奥にある、わずかな痛みには気づかないふりをした。
一歩中に入れば、外観からは想像もつかない、洗練された和モダンの個室が広がっている。
佐野樹はさっきから、そのお洒落な空間の熱気に乗っかって全力で場を盛り上げていた。
「みんなお酒足りてる? 次、何頼む? カクテルも色々あるみたいだよ」
手際よく卓上の空いたグラスをまとめ、壁の呼び出しボタンを押す。
男側の幹事である友人をアシストしつつ、女の子たちに「この店、居心地いいね」と楽しんでもらえるよう、樹は終始笑顔で会話のパスを回し続けていた。友人に頼まれて気まぐれで参加したこの会に何かを求めるつもりはなかった。ただ友人のアシストに徹する、それだけでいいと思っていた。あとは楽しく酒でも飲めればいい、と。
我ながら、いい働きをしていると思う。
話が弾む部屋をそっと見渡してそんなことを考えていた。その時、個室の木目の引き戸がスッと外側へとスライドした。 振り返った樹のグラスを持つ手が、わずかに震える。
「ごめんなさい! 入り口がちょっと分からなくて、迷っちゃいました……」
少し息を切らせて入ってきたのは、薄手のコートを羽織った女性だった。
防音性の高い個室のドアが開いたことで、店内に流れるジャズのBGMがかすかに大きく聞こえる。
彼女が「初めまして、白石です」と恐縮しながら、外のひんやりした夜の空気をまとったまま靴を脱ぐそのお淑やかな所作を、樹はグラスを持ったまま、柄にもなく呆然と見つめていた。
何年も、何千回も、夢の中で繰り返したその声。思わず零れそうになる名前を飲み込んで、樹は必死に初対面の顔を作る。
「……お疲れ様! ちょうど今、盛り上がってたところだよ」
少し高めの明るいトーンで場を繋ぐ。でも、心臓の音は他の人に聞こえそうなくらい、うるさく鳴っている。
「そこ空いてるから座って!」
友人の声に促され、彼女がゆっくりとこちらへ歩いてくる。樹のすぐ隣、最後の空席へ。
彼女が丁寧にコートを畳み、樹の隣に腰を下ろした瞬間、ふわりと上品なシャンプーのような匂いが鼻腔をくすぐった。
「遅れちゃってごめんなさい。仕事が長引いちゃって……」
「大丈夫だよ。ここ分かりづらかったよね?」
メニューを彼女に差し出しながらそっと伺う。雰囲気は少し大人びているが樹は確かに彼女に覚えがあった。彼女の笑い声が記憶の中から蘇ってくる。
(やっぱり、似てる)
「これにします」と甘めのサワーを希望する彼女からメニューを受け取り再度呼び出しボタンを押す。
「じゃあ全員そろったところで改めて自己紹介しちゃおうか!」
少し酔いの回った友人の声で各々が順番に自己紹介を始める。隣に座る彼女は一人ひとりの挨拶に丁寧に拍手をしている。樹は場を盛り上げつつその様子を横目で見ていた。やがて彼女の番になり緊張しながら立ちあがった彼女は言う。
「白石詩織です。今日は遅れちゃってごめんなさい。」
小さくお辞儀をする。
その名前に耳の奥で再生される声。
――樹くん。
自分を呼ぶ彼女の声を、樹ははっきりと覚えている。高校時代から付き合っていた、かつての恋人だった。ただどこかに違和感も覚えていた。
そして詩織の自己紹介が終わり、樹の番になる。平常を装いながら立ち上がると自己紹介をした。
「佐野樹です。今日は楽しみましょう!」
隣からの視線がどこか気恥ずかしかった。
「佐野さん、っていうんですね。なんだか、すごくお話ししやすい方で安心しました」
座った樹に詩織が声をかける。彼女の瞳には、少しの偽りも、隠し事もない。
本当に、自分のことを知らない初対面の男性として見ている。
その真っ直ぐな視線が樹にとってはどんな拒絶の言葉よりも胸に刺さる。
詩織は自分を忘れてしまったのだろうか。樹は彼女の言葉に少し迷って返した。
「そう?そう言ってもらえて嬉しいな」
戸惑いを見せない様に笑顔を浮かべる。
彼女が俺と初対面のふりをするのなら、俺もそれに合わせようと決めた。
それからは終始和やかに進んだ。お酒も回り二時間ほどが経過したところでお開きになる。会計を済ませ、出口に向かうとそこには詩織が立っていた。
「あれ、白石さん待っていてくれたの?」
「全部お任せしちゃって悪いなと思って。」
「気にしなくていいのに。」
詩織と樹が言葉を交わしながら店を出ると友人たちが二次会への参加を募っていた。
「樹、お前二次会くるだろう?」
「んー悪いけど、明日早いんだわ。今日は遠慮しとく!」
「なんだよー!つまんね!」
ヤジが飛ぶ。それに悪い、と返しながら樹は詩織をちらりと見る。彼女はどうするのだろうか。
「詩織は?どうする?」見抜かれたのか女性側の参加者が詩織に声をかける。詩織は困ったような笑顔を浮かべながら「私も今日は帰るね」と告げた。樹は内心ほっとしながら声をかける。
「じゃあ俺、送ってくよ」
「え?でも悪いよ」
「こんな夜遅くに女の子一人じゃ危ないでしょ。」
自然に誘えたと思った。初対面のふりならそれでいい。それでももう少し一緒にいたいと思っていた。
二次会に向かう人、帰路に着く人、それぞれを見送り、「じゃあ行こうか」と二人は並んで歩き出した。取り留めのない話をしながら夜の街を歩いた。
「私、実は大学の時、事故にあったんですよね。」
何気ない会話の中で詩織がぽつりと零した言葉。事故に遭ったなんて、樹は知らなかった。
「本当?元気そうだけど……」
「そんな大げさなものじゃないですけどね。幸い怪我も一カ月くらいの入院で済みましたし。ただちょっと記憶がないんです」
「記憶がない?」
「はい。事故に遭ったことは覚えてるんですけど、その前の。なんだか大切な記憶がぽっかりないような、そんな感覚がずっとあるんです。」
「おかしいですよね」
そう言って詩織は笑った。その笑顔はどこか寂し気で、樹の胸をうつ。
「思い出したいの?」
自然と問いかけていた。
「そうですね……そもそも本当に記憶がないのかも曖昧なので。」
さらに詩織は笑う。
「すみません。今日初めて会った人にこんな話して。なんか佐野さんには言いたくなっちゃいました」
”初めて会った人” 確かに詩織はそう言った。その瞳は最初に会ったとき同じでまっすぐ樹を捉えている。
――どうして、なぜ。
出かかった言葉を樹は飲み込む。
「……話してくれてありがとう」
それが樹の精一杯だった。
「いえ、聞いてくださってありがとうございます……。もうここで大丈夫です。」
気が付けば駅まで来ていた。樹はかける言葉を探す。
「今日はありがとうございました。楽しかったです。」
「楽しんでくれたならよかった。」
一言二言、言葉を交わして詩織は改札の奥へと消えていった。その後ろ姿を見送り、樹は詩織の言葉を思い出していた。
『記憶がないんです。』
もしかして、自分のこともその忘れてしまった記憶の一部なのかもしれない。そうだとすれば「初めて」を繰り返す理由にも納得がいく。だけどそれは憶測に過ぎなかった。
「連絡先交換すればよかった……」
過去に触れようかどうしようかと迷っている間に聞きそびれてしまった。けど、これでよかったのかもしれないとも思う。忘れてしまったにしろ、そうでないにしろ、もう会わないほうがいいのかもしれない。樹はそう思い直して来た道を戻っていく。胸の奥にある、わずかな痛みには気づかないふりをした。
