君の声

 初めて、はっきりと名前で呼ばれた。その響きが嬉しくて、たまらず詩織の細い手首を掴むと引き寄せるように手を握りしめた。詩織の手は少し冷たくて、でも驚くほど柔らかい。
「こちらこそ。……あ、そうだ」
 ポケットからスマホを取り出す。
「これからは、ゲリララジオじゃなくて、毎日普通に連絡していい?」
「いつでも待ってる」
 繋いだ手に少しだけ、詩織からも力が返ってきた。
 見上げた窓の外は、いつの間にか夕日が沈みかけ、グラウンドの喧騒もすっかり静まり返っている。
「……そろそろ、帰るか。また先生に見つかったら、今度こそ本気で怒られる」
「そうだね。片付けちゃうから、ちょっと待ってて」
 詩織がノートを鞄にしまうのを手伝いながら、ふと思う。初めて声をかけたあの日、暗くなり始めた夜道を二人で歩いた。あの時はまだ「クラスメイトの白石」だった。でも、今日の帰り道からは違う。
「詩織」
「ん?」
 鞄を肩にかけ、メッセージアプリの画面を閉じながら彼女が振り返る。
「……今日も、送らせて。っていうか、明日からも、ずっと」
 詩織は一瞬目を丸くしたあと、これまでで一番、可愛い笑顔を咲かせた。
「うん。ずっと、お願いね」
 防音室の重い扉を開けると、夏の終わりの少しぬるい夜風が廊下を吹き抜けていく。
 家に帰って、風呂を済ませて自分の部屋のベッドにひっくり返る。天井を眺めていると、夕方の放送室の光景が、詩織のあの潤んだ瞳と「私も、樹くんが好きです」という声が、何度も何度も脳内で再生された。
 そのたびに、心臓の奥が大きく跳ねる。
「……まじで、付き合ったんだよな、俺たち」
 ニヤけ顔を枕に押し付け、スマートフォンの画面を開く。
 メッセージアプリのトーク画面。一番上に表示されている【白石詩織】の名前を見つめ、文字入力画面に指を置いた。
『家ついた。今日からよろしく』
 いや、なんか硬すぎるか?
『何してる?』
 急にぐいぐい行きすぎか?
「あー!いつも通りでいいはずなのに……」
 たった一行のメッセージに、部活のフリースローの百倍くらい緊張している。結局、頭をガシガシと掻きむしりながら、一番シンプルに打ち直して送信ボタンを押した。
『無事家ついた。今日から、よろしく。』
 送ってから数秒。画面を凝視していると、驚くほどあっさりと『既読』の二文字がついた。
 返信がくるまでの短い時間がやけに長く感じられて、俺は思わず生唾を飲み込んだ。
 ピコン、と小気味いい通知音が響く。
『お疲れ様!私もさっきお風呂から上がったところ。こちらこそ、よろしくね、樹くん』
 画面越しに、あの少し照れたような詩織の笑顔が浮かんでくる。メッセージの最後についた、これまでにはなかった可愛い絵文字。
 もう駄目だった。文字のやり取りだけじゃ、足りない。
「あー、もう……!」
 考えるより先に、通話ボタンをタップしていた。
 耳元にスマホを当てると、プー、プー、と規則的な発信音が部屋に響く。三回目が鳴り終える前に、音が小さく途切れた。
『……もしもし?』
 少し驚いたような、でもどこか弾んだ詩織の声が、スピーカー越しに鼓膜を揺らした。
「急にごめん。なんか声聞きたくなって」
 ベッドの上で、無意識に寝返りを打つ。スマホを持つ手に妙に力が入ってしまう。
『ううん、びっくりしたけど……嬉しい。私も、声が聴きたかったから』
「……っ、」
 詩織の少し控えめな、でもストレートな言葉に、完全に不意を突かれた。あんなに堂々と告白したくせに、夜の電話は完全に形勢逆転だ。
「……ずる。そういうこと、普通に言うのな」
『えっ、変だった?(笑)』
「変じゃない。変じゃないけど……心臓に悪い」
 電話の向こうで、詩織が嬉しそうに笑う。防音室のスピーカーから聴く彼女の声も綺麗だったけれど、自分の部屋で、耳元でダイレクトに聴こえる声は、なんだか特別に柔らかくて、距離が縮まった気がする。
『……ねぇ、樹くん』
「ん?」
『本当に……私でいいの? 夢だったんじゃないかって、実はずっとお風呂の中でも考えてて……』
 不安げな声。
 いつも責任感が強くて、みんなの前ではしっかりしている詩織が、自分にだけそんな弱音をこぼしてくれている。その愛しさに、さっきまでの照れはどこかへ吹き飛んだ。
「夢じゃないよ。俺、ずっと詩織のこと見てたから。夕日の教室の時も、体育館の時も。……だから、詩織が頷いてくれてまじで嬉しかった。OKしてくれて、ありがとう」
 少しの間のあと、『……うん。私の方こそ、ありがとう』と、今度はほっとしたような声が返ってくる。
「あ、そうだ。明日さ、部活終わりにまた放送室迎えいくから一緒に帰ろ?」
『うん。待ってる。あ、でも……』
「ん?」
『みんなには、まだ内緒、だよね?』
 初めての通話は、夜遅くまで続いた。