君の声


 結婚したからと何かが変わったわけじゃない。何も変わらない日常が過ぎていく。
 朝起きたら、隣に詩織がいて、仕事をして、同じ家に帰る。
 くだらないことに笑って、休日は一緒に過ごす。
 たまにくだらないことで喧嘩して。

 多分、昔の俺はもっと特別な日々を求めていた。
 けど、何も変わらない今が何よりも特別なんだと思う。
 そばにいて欲しい人が、そばにいることは当たり前なんかじゃない。
 

「せんぱーい、今日飲みに行きません?」
「無理」
 広瀬の誘いに俺はパソコンに向き合ったまま即答する。
「え。はや」
「外で食うより家で詩織の手料理が食いたい」
「相変わらず仲がいいな」
 見向きせず答えれば中原さんの声がした。顔を上げればにこやかに笑う中原さんがいる。
「中原さんもたまには早く帰って、奥さんと一緒にデートでも行ったらどうですか?」
「……佐野、言うようになったな」
「中原さんのおかげです」
 笑って言えば肩を叩かれた。その時スマホが鳴る。
『今日早く終わりそう。仕事で樹の会社の近くに行くからいつものカフェで待ってるね』
 詩織からのメッセージだった。思わず口元が緩む。
「あれ、絶対奥さんですよ」
「だな」
 二人の声が聞こえる。
「中原部長、今日早めに上がってもいいですか?」
「急ぎの案件がないならいいぞ」
「ありがとうございます」
 頭を下げる俺を広瀬が不服そうに見つめる。
「飲みにも行ってくれない、先に帰っちゃう。俺は寂しいっす」
「お前はいい人いないのか?」
「部長、それセクハラです!」
 広瀬の声に思わず笑ってしまう。
「広瀬、結婚はいいぞ」
 追い打ちをかけるように言えば広瀬は崩れ落ちた。
「ひどい……部長、今日飲み行きましょう!部長の奢りで」
「なんでだ……俺も今日は佐野を見習って早く帰る」
 中原さんの言葉に広瀬の絶叫がフロアに響き渡った。

「じゃあ、お先に失礼します」
 定時より少し前。俺は宣言通り仕事を片付けて、パソコンを閉じる。
「楽しんでなぁ」
 中原さんの言葉に見送られながら会社をあとにした。
「カフェ、か」
 車を店の前に回して停める。窓際に座る詩織を見つけると、詩織も俺に気づいた。小さく手を振った彼女が立ち上がったのを見て、助手席のドアを開けて待つ。会計を済ませた詩織が店から出てきた。
「お待たせ」
 声を掛ければ詩織は嬉しそうに笑った。
「お仕事、お疲れさま」
 明るい声が耳元で響く。
「詩織も、お疲れ様」
 二人で笑い合って、詩織を助手席に乗せた。
「夕飯何がいい?」
「詩織が作るものなら何でも」
「答えになってない」
 車内でそんなやりとりをしながらスーパーへ向かう。二人で買い物をして、並んでキッチンに立つ。他愛もないことを言い合って一緒に食事をして、笑う。

 
 特別なことなんて何もない。
 だけどこの日々が愛おしい。

 一緒に笑って一緒に泣いて
 一緒に立ってくれる詩織がいる。

 出会った時から変わらないその笑顔があるだけで
 俺の毎日は特別になる。

 詩織が隣にいる
 それだけで十分だった。