君の声


 控室で樹は少し緊張した表情で座っていた。
「佐野様、そろそろお時間です」
 プランナーがノックの音とともに顔をのぞかせる。
「はい。」
 立ち上がった樹は両親の前に立った。
「立派になったな」
 父の言葉に樹は照れくさそうに笑う。母の瞳には涙が浮かんでいる。
「母さん、まだ早い」
 樹は笑った。
「……ほら。」
 言葉少なく父がジャケットを差し出した。ゆっくりと樹は袖を通す。
「……ネクタイ、曲がってる」
 母がネクタイを整える。
「父さん、母さん。ありがとう」
 樹は笑顔で言うと、控室を後にした。
 控室を出た樹はチャペルへ続く廊下を歩く。その先には、今日のために何度も打ち合わせを重ねた扉がある。
 詩織も今、どこかで支度をしているはずだ。
 そう思うだけで、また少し緊張した。
「こちらでお待ちください」
 スタッフに声をかけられる。
 「はい」
 樹は案内された場所で足を止めた。
 チャペルの扉はまだ閉じられている。
 
 高校生の頃、詩織とずっと一緒にいることが当たり前だと思っていた。
 大学生の頃、いつかそれが永遠になるのだと信じていた。
 
 その「いつか」が、今、目の前まで来ている。
 
 扉の向こうから、かすかに音楽が聞こえてくる。詩織がこだわった音楽だ。
 樹は一度だけ深く息を吸った。
 そして、ゆっくりと扉が開いた。
 一歩、また一歩とゆっくり祭壇へ向かう。
 友人や同僚たちが温かく見守ってくれている。友人席の一番前。親族の後ろに、京平と拓馬がいた。二人と目が合う。言葉はない。ただ二人が笑顔で見ている。それだけで樹の胸はいっぱいになる。 
 樹は祭壇の前まで歩き、静かに立ち止まった。
 司式者に一礼し、ゆっくりと振り返る。
 閉じられた扉が、視界の先にある。
 その向こうに、詩織がいる。
 樹は小さく息を吐いた。
 やがて、チャペルに流れる音楽が変わった。
 開いた扉の向こうに白いドレスが見えた。視線を上げると詩織がいた。
 父親と、一歩ずつゆっくり歩いてくる。
 樹の目の前までくると、父が詩織の手を樹に渡す。
「……任せたぞ」
「はい」
 小さく言葉を交わして樹は詩織の隣に立つ。一瞬、目が合う。恥ずかしそうに微笑む詩織に樹も笑う。
 二人は並んで祭壇へ向かう。
 司式者の言葉が静かに響く。
 樹は隣に立つ詩織を見つめた。
 初めて見た教室の姿から、今まで見てきた詩織が駆け抜けていく。
「それでは、お二人にお尋ねします」
 司式者の声に、樹は正面を向く。
「佐野樹さん。あなたは白石詩織さんを妻とし――」
「はい。」
 迷うことなく答える。続いて詩織にも問いかけが向けられる。
「はい。」
 小さな声だったけれど、はっきりと聞こえた。
 その言葉を聞いて、樹はそっと詩織の手を握った。
 指輪が運ばれてくる。
 樹は詩織の左手を取る。ゆっくりと薬指へ指輪を通した。
 次に詩織が樹の手を取る。
 その指先が少し震えているのが分かった。
「緊張してる?」
 小さく囁くと、詩織が困ったように笑う。
「樹もでしょ。」
「……うん。」
 二人で小さく笑った。
 指輪がお互いの指に収まると司式者が一枚の証明書を二人の前に置いた。
「それでは、お二人にサインをお願いします」
 樹がペンを取る。自分の名前を書き終えると詩織にペンを渡した。
 詩織もゆっくり自分の名前を書いていく。最後の一文字を書き終え、ペンを置いた詩織と目が合う。
 嬉しそうにはにかむ詩織に樹も優しい笑顔を見せる。

 何度も離れた。遠回りもした。
 それでも今、隣に立っている。

 並んだ二人の名前がそこにある。
 それだけで十分だった。