君の声

 あの日願った当たり前が当たり前じゃなくなっていく

「なぁ、これでいいと思う?」
「大丈夫」
「ほんとに?」
 鏡の前で樹はジャケットを何着も合わせていた。
「もう……大丈夫だって」
「スーツじゃなくていい?」
「しつこいよ」
 呆れる詩織に樹は少しだけ不服そうにする。
「……ちゃんとしたいじゃん」
 呟く樹に詩織は思わず笑みを零した。

 樹の運転する車で二人は詩織の実家に向かう。
 プロポーズの言葉を受け入れてくれた後、両親に挨拶をしたいと連絡すれば次の日曜日に、とあっという間に決まってしまった。
「久しぶりに詩織の家行くな」
「高校のときはよく来てたよね」
 朝は家に迎えに行き、帰りは家まで送る。休みの日や考査期間は一緒に勉強もしていた。そんな日々もあって詩織の両親と初対面ではない。それでも樹は緊張していた。
 詩織の実家に着き、呼び鈴を鳴らす。
「お母さん、ただいま」
 玄関を開け、詩織が声をかけると奥からパタパタと足音が聞こえてくる。
「樹くん、久しぶりね」
「ご無沙汰しています」
「ほんとに、格好良くなっちゃって」
「もう、お母さん」
 ニコニコと笑顔を浮かべる母親に詩織は呆れたように言う。
「はいはい。嫉妬しないの」
「違うから!」
「どうでしょうねぇ。さ、上がってちょうだい」
 鼻歌が聞こえそうなほど機嫌よく奥へと消えていく。
「もう……ごめんね。お母さん、樹が来るって言ったら喜んじゃって」
「ありがたいよ」
 樹は苦笑いを浮かべる。詩織に促されリビングへ向かうとコーヒーが用意されていた。
「樹くんはブラックでよかった?」
「はい。」
「ねぇ、お父さんは?」
「……あの人、詩織が取られるって部屋に籠っちゃった。」
「え……」
「今、呼んでくるわね」
 穏やかに微笑むと母はリビングを出て行く。しばらくして母親に連れられ、父親がリビングに顔を覗かせる。
「ご無沙汰しています」
 思わず立ち上がり樹は頭を下げる。
「……元気にしてたのか?」
「おかげさまで」
「そうか」
 父親はそれだけ言うと、樹たちとは反対へ腰を下ろす。
「……座りなさい」
「ありがとうございます」
 促され腰を下ろした樹は言った。
「今日はお時間を作っていただきありがとうございます。」
「いいのよ、いつでもいらっしゃい」
 父親の隣で母親が笑う。
「お話があって来ました。……お父さん、お母さん」
 樹は軽く息を吸って、頭を下げた。
「詩織さんと結婚させてください。」
 長い沈黙が訪れる。
(プレゼンより緊張する……)
 樹は震えないよう拳に力を込める。
「樹くんは、事故のことは?」
 父親が小さく零した。
「聞きました。」
「詩織が君を忘れていたことは?」
「僕達が再会したのは、詩織さんが僕を忘れてしまったあとです。」
「そうか」
 父親はそれきり黙り込む。
「……君に娘を幸せにできるのか?」
 それまで伏せていた視線がまっすぐ樹を捕らえた。その視線を樹は受け止め、まっすぐ返す。
「僕は、詩織さんと一緒に居て幸せです。もちろん彼女を幸せにするために努力はします。でも二人で幸せになりたい。そう考えています」
 言い切った。膝に置かれた樹の手を詩織が握る。
「お父さん。私、樹に幸せにしてもらおうなんて思ってない。樹と二人で幸せになりたい。」
 母親が涙を拭った気がした。
「……本当は娘はやらん、と言ってやるつもりだったんだけどな」
 ふっと、父親が笑う。
「樹くん」
 名を呼んでまっすぐ樹を見る。思わず樹の背筋も伸びる。
「娘を、泣かせないでくれな」
「はい!」
 樹は深く頭を下げた。
 それから届いた寿司を四人で囲んだ。
 詩織と母親がキッチンでお茶や取り皿を用意をしている間、樹は父親とソファに座っていた。
「樹くん。」
「はい。」
「アメリカに行っていたそうじゃないか」
「去年の秋から半年ほど行っていました」
「……海外は面白いだろう」
「……面白かったです」
 父親はふっと口元を緩めた。
「俺も昔はよく海外へ行ったものさ」
「そうだったんですか?」
「詩織は覚えてないだろうけどね。」
 父親は懐かしそうに言う。
「それにしても、あの樹くんがこんなに成長しているとはな」
 さっきまでの緊張感が嘘のように父親が和らいだ。
「いや。めっちゃ緊張しました。」
「君なら大丈夫とは思ってたんだけど、ついな。」
「……なんの話?」
 父親が笑うとお盆にお茶を乗せた詩織がやってきた。
「男同士の話だ。な、樹くん」
「……そういうことみたい」
 笑って言えば詩織は不思議そうに首を傾げた。届いたのは寿司の出前。
「樹くん、飲めるかい?」
「せっかくですが、今日車なんです」
「そうか。それは残念だ。詩織に運転させるわけにもいかないしな」
「お父さん、どういう意味?」
 軽く詩織が父親を睨みつける。思わず樹は笑ってしまった。
「今度、ぜひ飲みましょう」
「お、いいね」
 ビール瓶を受け取り、父親のグラスに注ぎながら樹は言った。
「樹くん、ほんとに詩織でいいの?」
「ちょっとお母さん!?」
 今度は母親が尋ねてくる。隣で詩織が慌てている。
「で、じゃないです。詩織さん"が"いいんです」
「……相変わらずまっすぐなのね」
 樹の隣で詩織が少し照れているのが分かる。樹は「それだけ詩織さんが大事なんで」と笑った。