君の声

 季節は流れるように進み、気づけば梅雨が明け、本格的な夏が訪れていた。
「そういえば、明日予定ある?」
 夕飯を終えた樹はソファに座って詩織に問いかける。
「何もなかったと思うけど」
 後片付けを終えた詩織が隣に座る。
「じゃあ、明日一日、俺にくれない?」
 少し緊張気味に言う樹を詩織は不思議そうに見る。
「いいけど、どうしたの?急に改まって」
「……デート、しようよ」
 詩織は数回瞬きをしたあと、笑顔で頷いた。

 翌日。
「おはよ」
 目が覚めて、最初に声を掛ける相手がいる。それだけなのに温かい。
「……おはよう。」
 まだ眠いのか、瞼をこすりながら答える詩織が愛おしい。
「まだ寝る?」
「ううん、起きる」
 詩織はそう言って起き上がる。後を追うように樹も起き上がり、詩織を抱きしめて言った。
「今日は朝からでかけよっか。朝ごはんも、外で食べよう」
「……今日は特別だ」
 ふわりと笑う詩織の寝癖が揺れる。その髪にそっと触れる。
「……寝癖ついてる。」
「……樹もね」
 笑い合う二人の影は自然と重なった。
 
「どこか行きたいとこある?」
「気になるお店があるの」
 身支度を整え、車に乗り込むと樹は詩織に問いかけた。詩織の案内でゆっくり走り出した車は街を抜け、見慣れた海沿いに出る。
「こっちで合ってる?」
「合ってるよ。最近できた海沿いのカフェなんだ」
 スマートフォンを見ながら詩織は答える。少し走ると目的のカフェに着く。開店したばかりの店内にはクラシックな音楽が流れていて、穏やかな朝にぴったりだった。二人は海沿いの席で朝食をとる。最後にコーヒーとカフェオレをテイクアウトして店を出た。
「美味しかったね」
「こういうとこ、好きだよな」
「女の子は嫌いじゃないと思うな」
 詩織の言葉に樹は「それもそうだ」と笑った。
「次、ちょっと行きたいところあるんだ」
 車を走らせながら樹は言う。
「ここから近くて、ちょうどいいかなって思うんだけど」
「どこ?」
「水族館」
 樹が一瞬詩織を見る。信号待ちで車が止まると、胸ポケットから二枚のチケットを取り出す。
「新しいイベントをやるらしくって。絶対来てください!って招待された」
「樹の会社?」
「そう。今回俺は外れたけど、仕切りは広瀬」
「広瀬くん、すごいね」
「……俺が育てた」
 少し誇らしそうに言う樹に詩織も笑顔を見せる。
「見てみたいな、樹の自慢の後輩が作る世界」
 詩織の言葉になぜか樹が気恥ずかしくなる。
 入り口でチケットを見せ中へ入ると、目の前には大きなペンギンのビジュアルが飾られていた。二羽のペンギンが寄り添うように並び、その上にはイベントタイトルが掲げられている。
『大切な人と歩く海。』
「ペンギン、か。」
「広瀬くんらしいね。」
「あいつ、イルカじゃ俺に勝てないって思ったのかもな。」
 樹は冗談めかして笑う。
「でも、こういうのもいい。」
「ふふ、楽しみだね」
 二人はゆっくり館内を歩く。子ども向けのスタンプラリーやクイズが館内の至るところに置いてある。常設されているものが広瀬のイベントと組み合わさって特別仕様になっていた。それらを楽しむ家族連れやカップルは確かに寄り添い合っていた。
(あいつ、やるじゃん)
 少しだけ心の中で褒めておく。樹は隣にいる詩織に目を向ける。楽しそうに笑う横顔に、もう一度だけ広瀬を褒めておいた。
「佐野さん」
 振り返るとそこには館長がいた。樹と詩織は軽くお辞儀をする。
「白石さんも、お久しぶりですね」
「館長こそ。お元気そうで何よりです」
 二人は館長のもとへ歩み寄る。
「お二人でいらっしゃると聞いてました。」
 一瞬、館長の視線が繋がれた手に向かう。それでも離すことはしない。
「幸せそうでよかった」
 穏やかに笑う館長に二人は少しだけ照れくさくなる。
「広瀬くん、朝からそわそわしてましてね。楽しんで行ってください」
 館長の言葉に見送られ、二人は館内を歩く。大水槽を抜け、クラゲ水槽を通り過ぎる。あの頃とは違う展示なのに懐かしかった。
「見て、メッセージボードだって!」
 出口付近に設置された一角を見つけて詩織がはしゃぐ。『大切なあの人へ』そう掲げられたボードの下には小さな紙とペンが用意され、メッセージが書けるようになっていた。
「書いていい?」
「いいよ」
 近くのテーブルに座り、メッセージを書き出した詩織を樹は少し離れた場所から見守る。ふと視線を巡らせると、遠くでイベントの指揮をとる広瀬が見えた。走り回る姿に一年前の自分の姿が重なる。
(がんばれ、広瀬)
 樹は胸の中でエールを送ると詩織の隣に座った。
「俺も書こうかな」
「珍しいね」
「特別、だから」
 そう言ってペンを走らせた。書けたメッセージは備え付けのボードに張ってもよし、ペンギンの形をしたポストに入れてもよしという作りだった。二人は並べてボードに貼り付ける。
「……同じだね」
「……だな」
 二人は顔を見合わせて笑う。どちらともなく手を繋ぎ、出口に向けて歩き出す。
 二人が書いたメッセージには『ずっとそばにいられますように』そう綴られていた。
 水族館をあとにして、樹はのんびり車を走らせる。
「次どうする?」
「おなかすいた」
「そうだな。ご飯にするか」
 樹は笑ってハンドルをきる。近くのショッピングモールに車を入れるとフードコートを目指す。
 それぞれが注文を終えて席につく。
「それだけで足りるの?」
 樹が詩織のトレイに載るオムライスを指して言う。
「足りるよ。樹は食べ過ぎじゃない?」
 今度は詩織が樹のトレイを指して言う。樹のトレイにはローストビーフ丼に味噌汁、付け合わせの小鉢まで載っている。
「これでも少ない方」
「嘘でしょ?」
「嘘」
 笑いながら言って味噌汁を口にする。
「……詩織が作るほうが美味い」
「もう」
 詩織は呆れて小さく息をつきながら、美味しそうに食べる樹を嬉しそうに見つめていた。
「食べる?」
「じゃあ一口だけ。」
 樹はローストビーフを一枚、詩織の皿にのせる。
「代わりに、そっちも一口ちょうだい」
「はいはい。」
 二人は自然に料理を交換する。何気ない話をしながら食事を終える。食器を返却すると、二人は並んでショッピングモールを歩き出した。雑貨屋に本屋、気になるお店を気ままに見ていく。樹は一軒の紳士服店の前で足を止めた。
「ちょっと寄っていい?」
「もちろん。」
 樹は気になったジャケットを手に取る。
「試着してくる」
「うん。待ってるね」
 少し待っていると試着を終えた樹がやってくる。
「どう?」
「似合ってる」
 詩織の言葉に樹は照れくさそうに笑う。
「これにしよ」
 樹はそう言ってレジへ向かった。会計を済ませると、店員が丁寧に紙袋を手渡してくれる。
「着ていかないの?」
「あとで着る。」
「そうなんだ」
 詩織は特に気にする様子もなく笑った。
 店を出ると、樹は紙袋を大事そうに抱え直す。
 時計を確認した樹が呟いた。
「そろそろ行こうか」
「次、どこ行くの?」
「それも内緒」
「また?」
「今日は特別だから」
 朝、詩織が言った言葉を返すように樹が笑う。
「もう。」
 困ったように笑う詩織の手を取り、樹は再び歩き出した。